第1679話 2018/05/26

九州王朝の「分国」と「国府寺」建立詔(4)

 九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」ですが、その寺院の名称が「国府寺」として諸国に統一されていたのかという問題について、説明します。
 九州王朝が告貴元年(594)に建立させた寺院の名称については、既に紹介したように次の二史料の存在がわかっています。
 一つは『聖徳太子伝記』に見える「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)」の記事にある「国府寺」です。「国府寺と名付ける」と明確に記されていますから、実証的にはこの記事を根拠に「国府寺」と理解する他ありません。しかし、論理的に考証(論証)しますと、各国にある「国府寺」が同名だと、諸国間の連絡や中央での管理記録において区別がつかず不便な統一名称となります。従って、もし「国府寺」と名付けられたとしても「正式名称」としては冒頭に国名が付されたのではないでしょうか。たとえば大和国府寺とか肥前国府寺のようにです。
 二つ目の史料が『日本書紀』推古2年条の「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」という記事です。ここでは「寺」という一般名ですが、「即ち、是を寺という」という記事は不思議です。それまで倭国には「寺」と呼ばれるものが無かったかのような記事だからです。また「諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る」ということであれば、この「佛舎」は諸国に一つずつの「国府寺」とは異なります。他方、「みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ」とありますから、詔勅による「国家事業」と解さざるをえません。おそらく、『日本書紀』編纂者は、九州王朝による「国府寺」建立をこのような表現にして、九州王朝や九州王朝による「国府寺」建立詔の存在を伏せたと思われます。
 以上の史料事実から、九州王朝が告貴元年(594)に建立を命じた「国府寺」は少なくとも通称として「国府寺」と呼ばれていたのではないかと推定できます。(つづく)

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