第250話 2010/03/27

天王寺と四天王寺

 『二中歴』所収「年代歴」の九州年号「倭京」の細注にある「二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」(古賀訳)という記事中の難波が、摂津難波
と博多湾岸にあったと考えられている「難波」のいずれなのかというテーマを検討し始めた当初から、わたしには気にかかっていたことがありました。現在の
「結論」は摂津難波と考えていますが、その場合、大阪に今もある四天王寺と『二中歴』の天王寺がはたして同じ寺かという問題でした。もっとはっきり言え
ば、四天王寺と天王寺とどちらが本来の名称なのかという疑問でした。
 関西の方なら特にご存じのはずですが、お寺の名前は四天王寺ですが、現地名は天王寺(大阪市天王寺区)なのです。古い地図でも「天王寺村」と記されてい
ますから、地名が天王寺であることは間違いありません。考えてみれば、これは大変不可解な現象です。
 四天王寺というお寺は聖徳太子が建立したと『日本書紀』にも記されており、古代からあった名称であることは確かと思いますが、それならその四天王寺が建
てられた場所としての地名も「四天王寺村」であるはずで、寺名とは異なる「天王寺村」とはしないはずです。しかし、事実は「天王寺村」であり「四天王寺
村」ではないのです。
 また、もともと「四天王寺村」であったのが、いつのまにか「天王寺村」に変わったということも考えられません。何故なら、お寺の四天王寺は現在まで立て
替えはあっても、当地に存続しているのですから、勝手に寺名とは異なる村名に変えることなどできないのではないでしょうか。また、する必要もありません。
 そうすると、考えられるケースはただ一つ。天王寺村の由来となった本来の寺名は「天王寺」だった。このケースです。すなわち『二中歴』に記された「天王
寺」が正しく、『日本書紀』の四天王寺は別の場所に建てられた別のお寺だった。あるいは、本来「天王寺」という名前のお寺が、九州王朝滅亡後に大和朝廷に
より四天王寺と名称変更されたのではないでしょうか。現存地名「天王寺」の存在が、この論理性を支持する動かぬ証拠なのです。
 この論理性の帰結からも、『二中歴』の「倭京二年(619年)、難波天王寺を聖徳が建てる。」という記事が正しかったこととなります。すなわち、この難
波は摂津難波であり、天王寺は大阪市天王寺区にあった「天王寺」のことだったのです。『二中歴』編者は『日本書紀』に影響されて「難波四天王寺」とはせず
に、原史料に忠実に「難波天王寺」と記したのです。更には、九州年号と共に記されたこの記事は、九州王朝の事績であり、この時代の摂津難波は九州王朝の直
轄支配領域だったのです。

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