第482話 2012/10/14

中国にあった「始興」年号

 第480話で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、出張時に持っていた「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、帰宅後にネットで調べてみました。そうしたらなんと7世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(618~624)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(616)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学会も同様の誤りを犯しているのです。 年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。

 (大業12年12月、616年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。

 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・620年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから620年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(618~624)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(611)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(616)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末 の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。(つづく)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする