第1291話 2016/10/28

『続日本紀』の年号認識(1)

 「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」のタイトルを持つ『古代に真実を求めて』20集の編集作業も本格的な段階に入りました。九州年号(倭国年号)特集号で、古田史学の会編『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房)以後の九州年号研究の最先端論文と、多くのコラム記事などにより構成された、読んで面白い一冊となりそうです。
 そこで改めて九州王朝から大和朝廷へ王朝交代したとき、大和朝廷の年号認識がどのようなものであったのかを精査するため、『続日本紀』編者の年号認識について考えてみることにしました。『続日本紀』の成立は797年ですから、九州王朝が滅び、大和朝廷が列島の代表者になって約百年後です。その頃の近畿天皇家の歴史官僚の年号認識に迫ってみます。
 『日本書紀』には九州年号(倭国年号)の大化・白雉・朱鳥が盗用されていますが、『続日本紀』に一番最初に記されている年号が「白雉」です。文武天皇四年(700)三月条の道照和尚崩伝に見える次の記事です。

 「初め、孝徳天皇の白雉四年、使に従いて唐に入る。」『続日本紀』文武四年三月条

 孝徳天皇白雉四年(653)に道照が唐に渡った記事ですが、このことは『日本書紀』白雉四年五月条に記されています。その記事を『続日本紀』でも採用したものです。すなわち、「白雉」を孝徳天皇の年号とする立場に立った記述です。
 ところが翌年の文武天皇五年(701)の三月に「大宝建元」記事が現れます。

 「甲午(21日)、対馬嶋、金を貢(たてまつ)る。建元して大宝元年としたまう。」『続日本紀』大宝元年三月条

 「建元」とは王朝にとって初めて年号を制定することで、それ以降の年号変更は全て「改元」です。『日本書紀』の「白雉」年号を記載した翌年に「大宝建元」と表記することの矛盾に『続日本紀』編者が気づかないはずがありません。(つづく)

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