第1402話 2017/05/20

前期難波宮副都説反対論者への問い(6)

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

  「前期難波宮九州王朝副都説」を発表以来、古田先生との意見交換が続き、ご批判やご指摘もいただきましたが、最後の八王子セミナー(2014年)では、参加者からの「前期難波宮副都説をどう思われるか」という質問に対して「検討しなければならない」と言っていただきました。発表以来、7年近くを経て、ようやく検討すべき仮説として認めていただいた瞬間でした。
 そうした古田先生とのやりとりの中で、意見が一致したこともありました。それは、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳の宮殿「難波長柄豊碕宮」は大阪市中央区法円坂の前期難波宮ではないということでした。
 この指摘は古田先生のほかに西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)からもなされていたもので、大阪市中央区法円坂の前期難波宮遺跡と大阪市北区の長柄豊崎とは場所が異なり、従って、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとされました。確かに、両者の位置は地下鉄でも5駅離れています(谷町線谷町四丁目駅、御堂筋線中津駅)。
 なお、北区長柄豊崎には豊崎神社が鎮座しており、同社の「由緒書」には、この地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」と紹介されており、平安時代に遡る現地伝承などをその根拠とされています。しかし、現在の古代史学界や考古学界では法円坂の前期難波宮遺跡を「難波長柄豊碕宮」とする見解が通説となっています。
 わたしも古田先生や西村さんと同意見で、前期難波宮は孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではないとしてきました。ですから、この点については古田先生と見解が一致していました。その後、古田先生は「難波長柄豊崎宮」を博多湾岸の長柄川下流域とする説を発表されました。わたしは今のところ、『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」は大阪市北区長柄豊崎付近でよいのではと考えていますが、いずれも考古学的調査による7世紀中頃の宮殿遺構が発見されていませんので、今後の課題だと認識しています。(つづく)

〔参考〕昔書いた「洛中洛外日記」を付記しておきます。ご参考まで。

古賀達也の洛中洛外日記
第561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。

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