第1588話 2018/01/26

倭姫王の出自

 過日の「古田史学の会」新春古代史講演会で正木裕さんが発表された新説「九州王朝の近江朝」において、天智が近江朝で九州王朝の権威を継承するかたちで天皇に即位できた条件として次の点を上げられました。

①倭王として対唐戦争を主導した筑紫君薩夜麻が敗戦後に唐の配下の筑紫都督として帰国し、九州王朝の臣下たちの支持を失ったこと。
②近江朝で留守を預かっていた天智を九州王朝の臣下たちが天皇として擁立したこと。
③九州王朝の皇女と思われる倭姫王を天智は皇后に迎えたこと。

 いずれも説得力のある見解と思われました。天智の皇后となった倭姫王を九州王朝の皇女とする仮説は、古田学派内では古くから出されてはいましたが、その根拠は、名前の「倭姫」を「倭国(九州王朝)の姫」と理解できるという程度のものでした。
 実は二十年ほど前のことだったと記憶していますが、倭姫王やその父親の古人大兄について九州王朝の王族ではないかと、古田先生と検討したことがありました。そのきっかけは、わたしから次のような作業仮説(思いつき)を古田先生に述べたところ、「論証が成立するかもしれませんよ」と先生から評価していただいたことでした。そのときは古田先生との検証作業がそれ以上進展しなかったので、そのままとなってしまいました。わたしの思いつきとは次のようなことでした。

①孝徳紀大化元年九月条の古人皇子の謀叛記事で、共謀者に朴市秦造田久津の名前が見える。田久津は朝鮮半島での対唐・新羅戦に参加し、壮絶な戦死を遂げており、九州王朝系の有力武将である。従って、ここの古人皇子は九州王朝内での謀叛記事からの転用ではないか。とすれば、古市皇子は九州王朝内の皇子と見なしうる。
②同記事には「或本に云はく、古市太子といふ。」と細注が付されており、この「太子」という表現は九州王朝の太子の可能性をうかがわせる。この時代、近畿天皇家が「太子」という用語を使用していたとは考えにくい。この点、九州王朝では『隋書』国伝に見えるように、「利歌彌多弗利」という「太子」が存在しており、「古市太子」という表記は九州王朝の太子にこそふさわしい。
③更に「吉野太子とい云ふ」ともあり、この吉野は佐賀県吉野の可能性がある。

 以上のような説明を古田先生にしたのですが、他の可能性を排除できるほどの論証力には欠けるため、「ああも言えれば、こうも言える」程度の作業仮説(思いつき)レベルを超えることができませんでした。
 ちなみに、「ああも言えれば、こうも言える。というのは論証ではない」とは、中小路駿逸先生(故人。元追手門学院大学教授)から教えていただいたものです。わたしが古代史研究に入ったばかりの頃、「論証する」とはどういうことかわからず、教えを乞うたとき、これが中小路先生からのお答えでした。

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