第2002話 2019/09/28

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)

 九州王朝(倭国)の「都督」を論じる際、必ず触れなければならない出色の論文があります。山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)です。
 この山田論文はそれまで不明とされてきた『日本書紀』景行五五年条に見える、「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であるという、目の覚めるような論証に成功されました。その上で、この「東山道十五國の都督」任命記事について、「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代において、信頼する有力な者を『東山道の周辺諸国』を監察する『都督』(軍を自由に動かすことができる官職)に任命した」と解されました。この指摘は九州王朝の全国支配体制を考察する上で、貴重な仮説と思われます。
 山田論文にある「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代」こそ、日本列島初の朝堂院様式の宮殿(朝庭)を持つ前期難波宮創建(652年、九州年号の白雉元年)の頃に対応するものと思われます。すなわち、7世紀中頃の評制施行時期に「東山道十五國都督」が任命されたのではないでしょうか。この点、もう少し丁寧に論じます。それは次のようです。

①山田論文によれば、景行紀の「東山道十五國」という表記は太宰府を起点とした国数であることから、それは九州王朝系史料に基づいている。
②そうであれば、彦狭嶋王を「東山道十五國の都督」に任じたのも九州王朝と考えざるを得ない。
③従って、「都督」という官職名も九州王朝系史料に基づいたことになる。
④中国南朝の冊封を受けていた時代は、九州王朝の倭王自身が「都督」であるから、その倭王が部下を「都督」に任じたということは、中国南朝の冊封から外れた6世紀以降の記事と見なさざるを得ない。
⑤『二中歴』「都督歴」によれば最初の「都督」に蘇我臣日向が任じられた年を「孝徳天皇大化五年(649)」としていることから、彦狭嶋王の「東山道十五國の都督」任命もこの頃以降となる。

 およそ、このような論理構造(論証)によれば、景行紀の「都督任命」記事は、本来は7世紀中頃のこととすべきではないでしょうか。この理解が正しければ、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかと想像されます。しかしながら、彦狭嶋王の年代はもっと古いとする研究(藤井政昭「関東の日本武命」、『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)もあり、この点、引き続き検討が必要です。(つづく)

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