第2328話 2020/12/20

「千手氏」始祖は後漢の光武帝

 九州王朝の家臣と思われる千手(せんず)氏の出自を調べたところ、主家の秋月氏と同族であることがわかりました。東京大学史料編纂所が所蔵する『美濃國諸家系譜』「秋月氏系図」に千手氏が出てきます。それには「種宣 千手五郎 住筑前國千手」とあります。種宣は原田種直の子で、原田秋月種雄の兄弟となっています。そしてこの原田氏・秋月氏の遠祖は大蔵氏で、大蔵氏の家系は後漢の光武帝まで遡ると伝えられています。
 「大蔵氏系圖」(注①)によると、後漢最後の獻帝(山陽公)の子が石秋王、その子が阿智使主(阿智王)、阿智王の子が高貴王(阿多倍)とあり、この高貴王が来日し、准大臣に任じられたとされています。時代は「孝徳天皇之御宇」とされていますから、七世紀中頃と思われます。そして、高貴王の次男「山本直」が大蔵姓を賜ったとあります。大和朝廷への王朝交代後も、大蔵氏は「太宰大監」などの大宰府の要職に就いています(注②)。
 七世紀中頃といえば九州王朝の時代ですから、高貴王は九州王朝の「大蔵大臣」だったのではないでしょうか。ちなみに、七世紀中頃は九州王朝は全国に評制を施行し、巨大な前期難波宮を九州年号の白雉元年(652)に造営しており(注③)、律令制下の「大蔵省」も成立していたはずです。その証拠に、『日本書紀』天武紀朱鳥元年(686)条の難波宮火災記事に「大蔵省」の記述があります。

 「乙卯(十六日)の酉のとき(午後六時頃・日没時)に、難波の大蔵省失火して、宮室悉(ことごと)く焚(や)けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べりという。唯(ただ)し兵庫職のみは焚けず。」『日本書紀』天武紀朱鳥元年正月条

 あるいは、大宰府政庁の西側に「蔵司(くらのつかさ)」という字地名と巨大建築物遺構が遺されており、その地も九州王朝の大蔵省に関係する役所・倉庫跡と思われます。本稿の結論が正しければ、九州王朝の中央官僚としての大蔵氏とその末裔千手氏の存在を明らかにできたと思われます。
 なお、豊臣秀吉の〝九州征伐〟の後、日向国高鍋に領地替えとなった主家秋月氏に伴って千手氏も同地へ移転しました。江戸時代になると高鍋藩秋月氏からは、当代屈指の名君とされる上杉鷹山公(1751-1822)が出ています。そうすると、鷹山公も九州王朝中央官僚の末裔ということになりそうです。

(注)
①『群書系図部集』第七「大蔵氏系圖」(昭和六十年版)
②先に紹介した「種直」の名前も同系図中に見え、「號岩戸少卿。又原田次郎大夫種成氏云。又號太宰少貳。安徳天皇西海行幸時、以私宅爲皇居。」との記事が付されており、平安時代末期の人物と思われる。
③前期難波宮が九州王朝の複都の一つとする説をわたしは発表している。次の拙論を参照されたい。
《前期難波宮関連論文》
前期難波宮は九州王朝の副都(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)
○「白鳳以来、朱雀以前」の新理解(『古田史学会報』八六号、二〇〇八年六月)
○「白雉改元儀式」盗用の理由(『古田史学会報』九〇号、二〇〇九年二月)
○前期難波宮の考古学(1) ―ここに九州王朝の副都ありき―(『古田史学会報』一〇二号、二〇一一年二月)
○前期難波宮の考古学(2) ―ここに九州王朝の副都ありき―(『古田史学会報』一〇三号、二〇一一年四月)
○前期難波宮の考古学(3) ―ここに九州王朝の副都ありき―(『古田史学会報』一〇八号、二〇一二年二月)
前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一三号、二〇一二年十二月)
○続・前期難波宮の学習(『古田史学会報』一一四号、二〇一三年二月)
○七世紀の須恵器編年 ―前期難波宮・藤原宮・大宰府政庁―(『古田史学会報』一一五号、二〇一三年四月)
白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―(『古田史学会報』一一六号、二〇一三年六月)
○難波と近江の出土土器の考察(『古田史学会報』一一八号、二〇一三年十月)
○前期難波宮の論理(『古田史学会報』一二二号、二〇一四年六月)
条坊都市「難波京」の論理(『古田史学会報』一二三号、二〇一四年八月)

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