第596話 2013/09/15

文字史料による「評」論(1)

 わたしが古田史学に感銘を受けて、九州王朝や九州年号研究を始めて27年になりました。その間、遅々として進まない研究分野や、予想以上の展開を見せた分野など様々でしたが、近年、新たな史料の出土や発見、そして優れた研究者の登場により、九州王朝史研究は着実に進み始め たように思われます。もちろん、古田先生の先駆的で精力的な研究活動に触発され導かれたことは言うまでもありません。

 そこで今回は九州王朝の行政制度「評制」について、文字史料を中心とした史料根拠に基づいて論じてみたいと思います。歴史研究ですから、史料根拠に基づかない、あるいは明示しない「説」や「論」では他者を納得させることはできませんし、なによりも学問的態度とは言えませんので、史料根拠を明示しながら丁寧に論じたいと考えています。

 まず最初のテーマとして、前期難波宮遺跡出土木簡に見える「秦人凡国評」について考えてみました。『大阪城址2』(大阪府文化財調査研究センター、 2002年)によれば、大阪城三の丸跡地の遺構(16層)から出土した木簡に「戊申年」(648)の他、「秦人凡国評」と記されたものがあります。この地層は7世紀中頃のものと編年されていますが、前期難波宮の「ゴミ捨て場」のような遺構状況のようで、「戊申年」木簡は出土していますが、廃棄されたの前期難波宮完成(652)以後と見られています。

 ここで注目したのが「評」木簡が出土したことの意味です。「秦人凡国評」が具体的にどの地域なのかは特定できませんが、7世紀中頃の難波の地、すなわち前期難波宮の地域が評制の施行範囲ということを示していることは確かでしょう。それは、7世紀中頃の難波は九州王朝による評制支配地域であることを意味します。それまでの国造等と称されていた地域豪族による支配から、九州王朝が任命する評督を介しての中央集権体制、すなわち評制が難波の地に及んでいた証拠の木簡なのです。

 従って、前期難波宮は九州王朝による評制下の宮殿ということができます。前期難波宮九州王朝副都説への反論として、近畿天皇家の勢力範囲、あるいはそれに近い難波に九州王朝が副都を造るとは考えられない、という意見がありました。それに対して、わたしは九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であればその支配地のどこに副都を造ろうと不思議とするには当たらないと反論してきました。この反論が正当なものであることは、この「秦人凡国評」木簡の「評」の字が示しているのではないでしょうか。(つづく)

 ところで、明日から中国出張です。明日は上海で仕事をした後、湖北省武漢に向かいます。湖北省は三国志の名場面の地ですが、たぶん仕事だけで観光する時間は全く無いと思います。とりあえず台風で飛行機が欠航しないことを今は祈っています。

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