第641話 2014/01/02

黒田官兵衛と「都督」

 今年のNHK大河ドラマは黒田官兵衛を主人公とする「軍師官兵衛」です。官兵 衛役は人気グループV6の岡田准一さん。黒田官兵衛(如水)は筑前黒田家の祖(初代藩主は息子の長政)で、ドラマの後半では九州が舞台になるとのことで、 今からとても楽しみにしています(官兵衛は晩年、太宰府天満宮に隠居したとのこと)。
 ところで筑前黒田藩と九州王朝に不思議な「縁」があることをご存じでしょうか。それは「都督」という称号です。20年以上も前のことですが、『糸島郡 誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)を調べていたときのことです。雷山にある層々岐神社の項(711頁)に、「石の寶殿」と呼ばれている上宮の 祠に銘文があり、そこにこの祠を寄進した人物名を「本邦都督四位少将継高公」と記されているのです。「本邦」とは筑前国のことで、「継高公」とは、筑前黒 田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のことです。すなわち、江戸時代(同銘文には「寶暦三癸酉年三月吉日」〔1753年〕とあります) においても、筑前の国主を「都督」と称しているのです。
 ご存じのように『宋書』倭国伝には、倭(九州王朝)の五王(讃・珍・済・興・武)が「都督」を自称したり、任じられた記事が見えますが、この場合の「都 督」は中国(宋)の天子の下の「都督」です。『日本書紀』天智紀にも「筑紫都督府」が記されていることから、九州王朝には「都督」がいたことがわかりま す。
 この「都督」を歴史的淵源として、筑前黒田藩の藩主も「都督」と称してきたと思われます。黒田藩主の「都督」の称号は、恐らくは京都の天皇家か徳川幕府 を「主」とする、配下としての「都督」という位置づけになるものと思われますが、「都督」問題は古田史学において重要なテーマです。その「位置づけ」も時 代によって変化しており、古田学派内でも九州王朝史研究において様々な仮説が提起されています。(つづく )

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