第243話 2010/02/06

前期難波宮と番匠の初め

 第224話において、寺井誠氏の論文「古代難波に運ばれた筑紫の須恵器」(『九州考古学』第83号 2008/11/29 九州考古学会)を紹介しましたが、そこで指摘された前期難波宮から北部九州の須恵器が出土しているという考古学的事実が何を指し示すのか、どのような証明力を有するのかをずっと考えてきました。

 というのも、通説通り前期難波宮が孝徳の王宮であれば、その建設に北部九州の工人達も参加したということになり、前期難波宮が九州王朝の副都であったという特段の証明力にならないという反論が予想されたからです。しかも、前期難波宮からは北部九州以外の土器も出土していますから、尚更です。
 こうした学問上の論証力という視点から、寺井論文の持つ意味についてより深い考察が必要と考え続けてきたのです。そして、寺井論文を何度も熟読するうちに、やがて論点がはっきりと見えてきたのです。その結論は、寺井論文はわたしの前期難波宮九州王朝副都説を間違いなく証明する貴重な考古学的事実を指し示しているというものでした。
 寺井論文で紹介された北部九州の須恵器とは、「平行文当て具痕」のある須恵器で、「分布は旧国の筑紫に収まり、早良平野から糸島東部にかけて多く見られる」ものとされています。すなわち、ここでいわれている北部九州の須恵器とは厳密にはほぼ筑前の須恵器のことであり、九州王朝の中枢中の中枢とも言うべき領域から出土している須恵器なのです。
 この事実は重大です。何故なら、土器だけが難波に行くわけではなく、当然糸島博多湾岸の人々の移動に伴って同地の土器が難波にもたらされたはずです。そうすると九州王朝中枢領域の人々が前期難波宮の建築に関係したこととなり、九州王朝説に立つならば、前期難波宮は孝徳の王宮などでは絶対に有り得ません。
 何故なら、もし前期難波宮が通説通り孝徳の王宮であるのならば、九州王朝は大和の孝徳のために自らの王宮、たとえば「太宰府政庁」よりもはるかに大規模な宮殿を自らの中枢領域の工人達に造らせたことになるからです。こんな馬鹿げたことをする王朝や権力者がいるでしょうか。九州王朝説に立つ限り、こうした理解は不可能です。寺井氏が指摘した考古学的事実を説明できる説は、やはり九州王朝副都説しかないのです。
 しかも、九州王朝の工人たちが前期難波宮建設に向かった史料根拠もあるのです。その史料とは『伊予三島縁起』で、この縁起は九州年号が多用されていることで、以前から注目されているものです。その中に「孝徳天王位。番匠初」という記事があり、孝徳天皇の時代に番匠が初まるという意味ですが、この番匠とは 王都や王宮の建築のために各地から集められる工人のことです。この番匠という制度が孝徳天皇の時代に始まったと主張しているのです。すなわち、九州から前期難波宮建設に集められた番匠の伝承が縁起に残されていたのです。「番匠の初め」という記事は『日本書紀』にはありませんから、九州王朝の独自史料に基づいたものと思われます。
 このように寺井論文が指摘した糸島博多湾岸の須恵器出土と『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という、考古学と伝承史料の一致は、強力な論証力を持ちます。ちなみに、『伊豫三嶋縁起』の「番匠の初め」という記事に着目されたのは正木裕さん(古田史学の会会員)で、古田史学の会関西例会で発表されました。ここまで論証が進むと、前期難波宮九州王朝副都説は揺るぎなく確立された最有力説と思うのですが、いかがでしょうか。

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