第2711話 2022/04/03

柿本人麻呂系図の紹介 (8)

 ―石見国益田家の「柿本朝臣系図」―

 『柿本家系図』の史料批判の一環として、石見国益田家の「柿本朝臣系図」と比較調査しました。「柿本朝臣系図」は「石州益田家系圖 柿本朝臣」として鈴木真年氏(注①)により筆写収集されたもので、尾池誠著『埋もれた古代氏族系図 ―新見の倭王系図の紹介―』(晩稲社、1984年)で紹介されています。それによれば、「石州益田家系圖 柿本朝臣」と表記された同系図には「柿本朝臣系図(筑波大学図書館所蔵)」のタイトルが冒頭に付されており、鈴木真年氏による筆写本は筑波大学図書館にあるようです。
 系図の筆頭には「孝昭天皇」があり、次いで「天足彦國押人命 一云天押帯日子命」・「和尓彦押人命 一云若押彦命 居倭国丸迩里」へと続きます。そして十五代目の「猨(さる)」と「人麿」兄弟に至ります。わたしが持っている同系図コピーは文字が潰れているため判読が難しく、誤読しているかもしれませんが、「人麿」の左右細注に次の記事が見えます。

 右注 「石見掾 正八上」 ※「正八上」は正八位上の略。
 左注 「初日並知皇子舎人
後高市皇子舎人
     下向石見国住美乃郡○田里
     藤原朝廷三月十八日死」
 ※○は判読困難な字。「戸田里」か。

 「人麿」の兄とされる「猨」の細注は次のように読めます。

 右注 「彳四下」 ※従四位下の略か。
    小錦下」
 左注 「天武天皇白鳳十年二月癸巳○小錦下任
    同十三年十一月戊申朔改賜朝臣姓
    和銅元年四月壬午卆」
 ※「同十三年十一月戊申朔」は天武十三年(684)十一月朔戊申の日と思われる。従って、ここでの「白鳳」は天武元年(672)を白鳳元年とした後代に於ける改変型「白鳳」であり、本来の九州年号「白鳳」(661~683年)とは異なる。和銅元年の死亡記事は『続日本紀』和銅元年四月条に見える。

 「人麿」の子供は「蓑麿」とあり、その細注は次のようです。

 右注 「彳六下
    美乃郡少領」
 左注 「母 依羅衣屋郎子」

 『柿本家系図』に見える人麿の実子とされた男玉は人麿の前妻との子供と思われ、「石州益田家系圖 柿本朝臣」によれば「石見国美乃郡」への「下向」に男玉は同行せず、都(藤原京)に留まり、後に東大寺大仏の鋳造に関わったこととなります。「蓑麿」は後妻「依羅衣屋郎子」(注②)との子供で、石見国で生まれた末子ではないでしょうか。
 また、「石見掾 正八上」という人麿の官位「正八位上」は、「中国」(注③)と指定された石見国の官職「掾(じょう)」に対応しているようです。「藤原朝廷三月十八日死」とする具体的年次不明の没年記事も、九州年号の大長四年丁未(707)に没したとする『運歩色葉集』の「柿本人丸――者在石見。持統天皇問曰對丸者誰。答曰人也。依之曰人丸。大長四年丁未、於石見国高津死。(以下略)」と整合しており、注目されます(注④)。両書の記事が正しければ、人麿の没年月日は大長四年(慶雲四年、707年)三月十八日ということになります。
 なお、「石州益田家系圖 柿本朝臣」と表記されていますが、天武十三年の八色姓制定時に「朝臣」の姓(かばね)を賜った記事は兄の「猨」の左注にあり、弟の「人麿」やその子孫の細注に「朝臣」記事はありません。これは「柿本」氏(柿本臣)に朝臣姓を賜ったことによります。(つづく)

(注)
①鈴木真年氏については、「洛中洛外日記」2433話(2021/04/13)〝「倭王(松野連)系図」の史料批判(2) ―鈴木真年氏の偉業、膨大な系図収集―〟にて詳述したので参照されたい。
②『万葉集』には「依羅郎子(よさみのおとめ)」と表記され、人麿の死を悼んだ歌などが収録されている。
③律令により諸国は大国・中国・小国に分類され、『延喜式』によれば石見国は中国とされている。
④古賀達也「洛中洛外日記」274話(2010/08/01)〝柿本人麻呂「大長七年丁未(707)」没の真実〟

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