第1227話 2016/07/10

太宰府、般若寺創建年の検討(1)

 太宰府市の著名な考古学者、井上信正さんの論文「大宰府条坊の基礎的考察」(『年報太宰府学』第5号、平成23年)を読んでいて、興味深い問題に気づきました。この論文は太宰府条坊研究において考古学的には大変優れたものですが、大和朝廷一元史観との「整合性」をとるために非常に苦しい表現や矛盾点を内包しています。
 たとえば観世音寺の創建について「創建年代が天智朝に遡る可能性がある観世音寺」(p.90)と冒頭に紹介されています。他方、井上さんが発見されたように、太宰府条坊区画とその北部に位置する政庁2期・観世音寺・朱雀大路の主軸はずれており、条坊区画の造営が先行したと考えられることから、政庁2期などを7世紀末〜8世紀第1四半期、条坊区画はそれ以前とされました(p.88)。この表現からすると、観世音寺は天智朝の頃なのか、7世紀末〜8世紀第1四半期とされるのか混乱しており、意味不明です。
 井上さんの理解としては太宰府条坊区画は7世紀末頃の造営で、藤原京造営と同時期であり、政庁2期や観世音寺はそれ以後の造営とされています。しかし、そうすると観世音寺が天智天皇の発願により660〜670年頃に造営開始されたとする史料事実や伝承と矛盾してしまいます。この明白な矛盾の存在について井上論文では触れられていません。もし、観世音寺造営を660〜670年頃としてしまうと、自身の研究成果により条坊区画の造営が7世紀前半にまで遡ってしまい、わが国初の条坊都市とされてきた藤原京よりも太宰府条坊都市の方が古くなってしまうのです。これでは大和朝廷一元史観に不都合なため、その点を曖昧にし、矛盾を内包した不思議な論文となってしまうのです。
 この井上説が内包する重大な「矛盾」については、これまでも指摘してきましたが、今回、発見したのは同じく太宰府条坊内にある般若寺の創建年についての問題です。(つづく)

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