第1270話 2016/09/14

京都府立総合資料館での爆読、「九州」調査

 京都府立総合資料館閉鎖の報に接し、数々の思い出が蘇るのですが、「空海全集」などの他にも全巻読破したものに「平安遺文」「鎌倉遺文」がありました。「寧楽(なら)遺文」は持っていましたので、自宅で読みました。この場合は「読む」というよりも、「検索」に近い作業で、検索ワードは「九州」でした。
 古代中国において「九州」とは天子の直轄支配領域を意味する政治用語で、中国史書にも「九州」という用語が散見されます。もちろん日本列島の九州島のことではなく、中国の天子の直轄支配領域、転じて自国のことを意味しています。ですから、日本列島の九州という地名は単に国が九国あるということではなく、その地の政治権力者により九州島を九分割して、意図して「九州」という名称に対応させたと考えられるのです。たとえば筑紫や肥、豊は「前」「後」に分割し、その他の日向・薩摩・大隅は分割せず、意図的に九分割した痕跡がこれら「前」「後」地名として残ったと見られるのです。
 こうした視点に立って、国内史料中に見える「九州」表記を調査し、いつ頃に九州島が九国に分割されたのか、そして「九州」と表記されるようになったのか、あるいは701年以降に日本の代表王朝となった近畿天皇家が自らの支配領域を「九州」と表記したのはいつ頃からかという調査を行いました。そのときに「平安遺文」などの膨大な史料調査を府立総合資料館で終日行ったのです。
 この調査結果に基づいて書いた論文が「九州を論ず -国内史料に見える「九州」の変遷-」「続・九州を論ず -国内史料に見える「九州」の分割-」です。両論文は古田先生等との共著『九州王朝の論理』(2000年、明石書店)に収録されています。この論文は古田先生からも高い評価をいただくことができ、自分でも自信作の一つです。休日の度に府立総合資料館に通い、昼食抜きで閉館時間まで爆読(検索)した日々が懐かしく思い出されます。

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