2015年04月一覧

第927話 2015/04/19

「邪馬台国」論争を越えて

・・・邪馬壹国の歴史学

 今日はi-siteなんばで、「古田史学の会」の編集会議を行いました。今秋、発行予定の『三国志』倭人伝研究の本に関する書名や章立て、掲載稿について審議しました。
 書名について様々な案を検討し、従来の「邪馬台国」本とは内容もレベルも異なることが印象づけられる古田史学らしい書名として次の案が採択され、明石書店に提案することにしました。

 『「邪馬台国」論争を越えて ・・・邪馬壹国の歴史学・・』古田史学の会 編

 章立ても検討中ですが、次のような項目(仮称)と切り口で古田史学・邪馬壹国説を説明します。

 ○巻頭言
 ○初めて古田史学、邪馬壹国説に触れられる皆様へ
 ○古田先生からのメッセージ
 ○倭人伝の位置づけ
 ○短里で書かれた『三国志』
 ○倭人伝の二倍年暦
 ○倭人伝の文物
 ○全ての史学者・考古学者に問う
 ○講演録
 ○『三国志』原文(紹煕本)と古田先生の訳文

 若干の変更はあると思いますが、概ね以上のような内容となります。この本もかなり面白く、かつ後世に残る一冊になりそうです。
 ところで、3月に発刊しました『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)が好評により、明石書店の在庫も底をつきそうですので、増刷の方向で検討を進めています。お買い上げいただいた皆様に御礼申し上げます。


第926話 2015/04/18

アポローンは太陽神か?

 本日の関西例会も盛りたくさんの発表で、楽しく有意義な一日となりました。
 冒頭、西村さんからは、ギリシア神話のアポローンは太陽神ではないと史料をあげて説明されました。アポロドーロス著『ギリシア神話』(高津春繁訳、岩波文庫)によれば、アポローンは予言者・神託にかかわる神とされており、古代ギリシアにおける太陽神はヘーリオスとされています。ちなみにヘーリオスはオリンポス山には住んでいないとのこと。アポローンがいつ頃から太陽神とされたのかと質問したところ、5〜6世紀頃ではないかとのことでした。
 原さんは、『住吉神代記』に記された住吉の神領が難波京を取り囲むように位置していることから、これら全体で「一国」を形成していたのではないかとされました。そして『二中歴』「年代歴」細注にある「新羅人来たりて筑紫より播磨を焼く」という記事は、新羅が住吉神社の勢力圏を攻撃したのではないかとされました。
 出野さんからは前回に引き続いて、『漢書』『三国志』倭人伝に見える「倭」と「倭人」が別国(朝鮮半島の「倭」国と日本列島の「倭人」国)であるとする持論を展開されました。先月、茂山憲史さん・正木さん・西村さんから出された批判について、改めて反論されました。特に興味深く思ったのが、西村さんへの反論で示された「在」と「有」の違いについての説明です。『漢書』の「楽浪海中有倭人」にある「有」は倭人の「初見」を表す際に用いられ、既知の場合は「倭人在帯方東南海中」(『三国志』倭人伝)のように「在」の字が使われるとのことで、面白い指摘と思われました。
 岡下さんは、『万葉集』で宇治川を「是川」と表記する例(2427・2429・2430)があるが、これは「この川」と訓むのではないかとされました。そして、古墳時代の銅鏡の銘文で倭人は漢字を習得したとする森浩一説を批判され、交易により記録が必要なため、渡来人から倭人は交易業務と共に文字を習ったとされました。倭国の文字受容の時期や仕方について論議が交わされ、認識が深まりました。
 この間続けられてきた「大化改新詔」論争が今回もなされました。服部さんは、前回の正木さんからの批判は決定的なものではないと反論され、「大化改新詔」は九州王朝により7世紀中頃に前期難波宮で出されたと考えても問題ないとされました。
 正木さんからは「大化改新」論争の研究史と諸説を概説され、自説の「常色の改革」説を再論されました。そして、なぜ九州年号「大化」(695〜703年)を『日本書紀』では645〜649年にずらして盗用したのかが根本の問題とされ、その理由が説明できない服部説を批判されました。
 次に、「短里」の起源が殷まで遡ることを『礼記』などから論証され、「短尺(16cm強)・短寸(2cm強)」と「短歩(25cm強)・短里(75m強)」(周制三百歩を一里とす。『孔子家語』)が別系統の長さの単位であることを漢字の語義などから明らかにされました。
 最後に、服部さんから「長者」の意味について発表があり、「長者」は仏教用語(ギルドの頭領・指導者・組合長を意味するシュリイシュティンの漢訳)として6世紀後半から7世紀にかけて日本に伝来したとされました。そして「長者」は九州王朝の天子の呼称としてふさわしいと締めくくられました。時間が少し余りましたので、ギリシア旅行の報告が服部さんからなされました。
 以上、4月例会の発表は次の通りでした。

〔4月度関西例会の内容〕
①アポローンは太陽神に非ず(高松市・西村秀己)
②住吉神代記と九州王朝(奈良市・原幸子)
③松本清張氏の見解を再び(奈良市・出野正)
④鏡は文字習得に役立ったか(京都市・岡下英男)
⑤「大化年号は何故移設されたか」論考に問う(八尾市・服部静尚)
⑥大化の改新問題について(川西市・正木裕)
⑦「短里」の成立と漢字の起源(川西市・正木裕)
⑧長者考(八尾市・服部静尚)
⑨ギリシア旅行報告(八尾市・服部静尚)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(お元気で好調、津軽の金光上人新史料入手、太田覚眠新史料入手)・新年度の会役員人事・橿原市博物館ハイキング・テレビ視聴(北摂の窯業生産、平安遷都と瓦生産)・大塚初重氏「三角縁神獣鏡国産説に転向」・その他


第925話 2015/04/17

久留米市「伊我理神社」調査報告

 久留米市の犬塚さんから、同市城島町の「伊我理神社」調査報告のメールが届きました。ホームページ読者からのこうした現地調査報告は大変ありがたいことです。しかも、かなり詳細な報告でしたので、様々な問題点が明らかとなり、今後の研究にとても役立ちました。犬塚さんのご了解を得ましたので、メールを転載し、わたしの考察を付記します。

【調査報告】※メールより抜粋。(転載文責:古賀)

古賀達也様
 
 洛中洛外日記第911話の「威光理神社」に関し、資料及び現地調査(2015.4.15)から以下のようなことが分かりましたのでご報告します。他の方からの情報と重複する部分があればご容赦ください。

1 威光理神社(伊我理神社)は、城島町に4社存在します。
 
(1)伊我理神社      久留米市城島町楢津1364
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理宮(神社仏閣并古城跡之覚書)
  威光理明神社(筑後志)
 伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)
 
  現地調査の結果:鳥居(昭和15年建立)の神額及び境内の芳名録(昭和13年)には「威光理神社」とあり、建立祈念碑(平成20年)では「伊我理神社」と なっている。
 
(2)伊我理神社       久留米市城島町六町原847
    祭神 天照大神荒御魂
 
    威光理大明神(寛文十年久留米藩社方開基)
    威光理神社(神社仏閣并古城跡之覚書)
    威光理明神社(筑後志)
    伊我理神社(福岡県神社誌下巻)
    伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:鳥居(平成18年再建)の神額には「伊我理神社」とある。境内には、小さな拝殿があるのみで神社名や祭神を示すものは何もない。
 
(3)天満宮        久留米市城島町大依190
  祭神 菅原道真
    合祀  威光理神社

  末社 威光理五社大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
  境内神社 伊我理社(福岡県神社誌下巻)
    合祀 威光理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財)
    合祀 威光理神社(城島町誌には「昭和37年10月18日天満神社神殿に遷宮し、合祀した。」とある。)

 現地調査の結果:境内には由緒を説明するものはなく、威光理神社を示すものも見当たらなかった。

(4)高良玉垂神社(旧七社大権現)久留米市城島町楢津942-1
  祭神 正座七社 高良玉垂命・住吉大神・八幡大神・須佐之男命・川上大神・熊野大神・天満宮
    相殿二社 伊我理社・諏訪社
    末社 威光理大明神社(寛文十年久留米藩社方開基)
    すき崎 威光理大明神(神社仏閣并古城跡之覚書)
     末社 威光理神社(筑後志)
     伊我理神社(城島町の史蹟・遺跡・文化財「昭和39年3月合祀、末社として境内に祀った。」)
     末社 伊我理神社(城島町誌)

 現地調査の結果:由緒に「昭和三十八年十月諏訪神社・伊我理神社合併本社に合祀する。」とあった。境内東側に、上記合祀に伴い境外から移設した鳥居(建立年代不詳)があり、その神額には「伊我理神社」とあった。

2  高良玉垂神社に対する聴き取り調査(2015.4.16)
 上記四社の管理を行っている高良玉垂神社に対し電話で聴取を行った。禰宜の大石さんから以下のような話をいただいた。

 高良玉垂神社の境内にある伊我理神社の鳥居は、昭和38年の合祀の際、別の場所にあった伊我理神社から移設したものである。現在その場所には何もない。鳥居が建立された時期についてはよく分からない。
 大依の天満宮には、伊我理神社が昭和37年に合祀されている。本殿が新設された際境内にあるすべてのものを本殿に納めたので境内には何もない。
 神社の名称が「威光理神社」から「伊我理神社」に替わったという認識はない。従前「いかり」という名に「威光理」や「伊我理」の漢字を当てはめ、併用されてきたと思われる。現在は「伊我理神社」に統一されている。楢津の「伊我理神社」も鳥居には「威光理神社」とあるが、正式には 「伊我理神社」である。名称が四社とも統一されたのは、第二次大戦後宗教法人として登録する際煩雑さを避けるためであったと聞いている。

 

3  その他
 城島町誌103頁に、城島の地名の由来として次のような記述があります。

「井上農夫の調査によると、光孝天皇の仁和三年(887)、豊島真人時連が高三潴の役所に近い大依に土着し、氏神伊我理神を祀り、周囲の海岸・潟地・洲島を開拓して勢力を広めた。」

 この郷土史家井上農夫の調査の内容、資料については何も示されていないため、当初から「伊我理」という神名であったのか確認ができない状態です。今後何か分かれば追ってお知らせしたいと思います。

  久留米市 犬塚幹夫

【古賀の考察】
(1)現在は「伊我理神社」に名称は統一されているが、江戸時代の史料には全て「威光理」とあることから、本来の名称は「威光理」と考えられる。

(2)江戸時代よりも後に「伊我理」の名称が採用されたが、御祭神は「天照大神荒御魂」とあり、伊勢神宮末社「伊我理神社」の御祭神伊我理比女命とは異なる。従って、神社名は伊勢神宮末社と同名に改称したが、御祭神まで同一にはしなかった。ただ、いずれも女神という点で一致しており、留意したい。

(3)「井上農夫の調査」によれば、仁和三年(887)に豊島真人時連が当地に氏神として祀ったとあり、これが正しければ「威光理」は当地あるいは近隣地域の氏神であり、「現地神」ということになろう。

(4)現地神であれば、「威光理」とは地名か神の固有名の可能性が高い。

(5)そうすると、現在の御祭神「天照大神荒御魂」も本来の名称ではなく、いずれかの時代に御祭神が変更・改称されたと考えられる。恐らく、神社名が「威光理」から「伊我理」に変更されたときではないか。

 以上のように考察しましたが、引き続き調査検討します。犬塚さん、ありがとうございました。


第924話 2015/04/16

『二中歴』九州年号 校訂跡の証言

 昨日、出張で加東市から香川県に向かう途中、サービスエリア(淡路南SA)で休憩していたとき、『二中歴』「年代歴」所収の九州年号に見える校訂跡が重要な問題を示していることに気づきました。それは「兄弟六年 戊寅」(558年)の「六」の字の右に記された「一イ」という傍書(縦書き)です。
 この「一イ」という傍書の意味は、異(イ)本によれば「六」の字は「一」とある、という意味です。他の九州年号史料によれば「兄弟」という九州年号は元年だけで、翌年は「蔵和」と改元されています。このことは『二中歴』「年代歴」自身からも明らかで、この「兄弟六年 戊寅」という文の意味は「兄弟」という年号は六年間続き、その元年干支は戊寅(558年)であるということです。ところが、「兄弟」の次の年号「蔵和」は「蔵和五年 己卯」とあり、元年干支「己卯」は「戊寅」の翌年の559年ですから、「兄弟」は元年しかないことがわかります。従って、「兄弟六年」というのは誤りで、正しくは「兄弟元年」とあるべきなのです。
 それでは何故「六年」と書かれたのでしょうか。これは単純な誤写によるものと思われます。すなわち「元年」の「元」の字を「六」と読み間違えた書写者がいたのです。「元」と「六」は字形が似ていますから、わたしは同様の誤写を他の史料でも見た記憶があります。そこで、「年代歴」部分を書写した人がそのことに気づき、他の九州年号史料(異本)により校訂し、「六」の字の右に「一イ」と傍書したのです。
 このように「一イ」という傍書が直接意味するところは、わたしは『二中歴』研究の当初から気づいていましたが、実はこの傍書が重要な問題の証拠・証言になるという論理性に、昨日気づいたのです。それは次のようことです。箇条書きします。

(1)「年代歴」に示された九州年号史料とは別の九州年号史料が、その当時(平安時代以前)、存在していた。だから比較校訂できた。
(2)「年代歴」の校訂跡はここだけなので、校訂時に参照した九州年号史料との異同が「兄弟」の他にはなかったと考えられる。
(3)『二中歴』タイプとは異なる年号立ての九州年号群史料がある(鎌倉時代以降成立の史料)。たとえば「聖徳」「大長」があり、「継躰」「朱鳥」が無い一群である。このタイプの九州年号群史料は、この校訂を行った時には存在していなかったことになる。もし存在していたのなら、校訂者はそれらとの差ついても校訂の傍書をしたはずだから。
(4)従って、『二中歴』「年代歴」の示す九州年号が現存九州年号群史料としては最も成立が古く、かつ原型に近いと考えられる。

 以上の論理性が成立することに、わたしは気づいたのです。


第923話 2015/04/15

法道仙人開基の

  朝光寺訪問

 今日は兵庫県加東市に行きました。お客様との約束時間より早く到着しましたので、昼食の休憩を兼ねて近くの朝光寺を訪問しました。大きく立派な本堂(国宝)が見事でした。
 朝光寺は法道仙人が白雉2年に開基したとする寺伝を持つ古刹ですが、観光案内パンフレットなどでは、この白雉2年を『日本書紀』の白雉2年(651年)と紹介されていますが、やはり九州年号の白雉2年(653年)と理解すべきと思われます。開基伝承の出典は『朝光寺文書』などのようですので、これから調査したいと思います。
 朝光寺の他にも播磨地方には法道開基とされる白雉年間の創建伝承を持つ寺院が多く、九州年号研究でも注目されている地域なのです。ちなみに、加西市の一乗寺も法道による白雉元年の開基とされています。
 恐らく、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「元壬子年」(白雉元年壬子・652年)木簡も白雉年間における播磨地方の寺院創建ラッシュと関係するのではないかと推察しています。さらにはこの白雉年間の寺院創建は、九州年号の白雉元年(652)に完成した九州王朝の副都「前期難波宮」と無関係ではないようにも思われるのです。今後の研究の深化が期待されます。


第922話 2015/04/14

『新撰姓氏録』「佐伯本」と学問の方法

 20年ほど昔のことですが、わたしが『新撰姓氏録』の研究をするためにどのテキストを使用するべきか、古田先生にご相談したことがあります。比較的手に入りやすく、各写本や版本の解説がある佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究 本文篇』(吉川弘文館)を用いようとしたのですが、そのとき古田先生から文献史学にとってとても大切なことを教えていただきました。
 それは、同書は各写本・版本間に文字の異同などがある場合、佐伯さんの判断でそれぞれの諸本から取捨選択されており、言わば『新撰姓氏録』「佐伯本」ともいうべきものであり、文献史学における史料批判の基本から見ればテキストとして使用すべきではないと指摘されたのです。すなわち、文献史学において諸本間に文字や記述の異同がある場合は、現代人の認識や判断で取捨選択するのではなく、史料批判や論証の結果、最も原文に近いと判断できる写本・版本をテキストとして依拠しなければならないという学問の基本姿勢について注意されたのでした。
 わたしはこのとき古田史学の学問の方法で最も大切なことの一つである史料批判について学んだのです。このことは、後の研究にも役立ちました。一例をあげれば、数ある九州年号群史料の中で、最も原型に近いと判断される『二中歴』を重視するということも、このときの経験によるものでした。初期の九州年号研究において、なるべく多くの史料を集め、その中で最も多い年号立て、あるいは最大公約数的な年号立てを九州年号の原型と見なすという手法が盛んに行われましたが、古田先生は終始この方法を批判され、史料批判に基づいて最も成立が早く、原型を保っている『二中歴』に依拠すべきとされたのです。すなわち、学問は多数決ではなく、論証に依らなければならないのです。そして、このことが正しかったことは、現在までの九州年号研究の成果により確かめられています。
 思えば古田先生は『「邪馬台国」はなかった』のときから、この立場に立たれていました。『三国志』版本の中で紹煕本が最も原型を保っていることを論証され、その紹煕本に基づいて研究をされたことは、古田学派の研究者や読者であればよくご存知のはずです。『万葉集』でも同様で、「元暦校本」を最良のテキストとして古田先生は研究に使用されています。
 たとえば『三国志』倭人伝の原文が、「邪馬台国」と「邪馬壹国」のどちらであったのかを論じる場合、国会図書館の蔵書中の表記を全て数え、多数決で決めるという方法が非学問的であることはご理解いただけるでしょう。それと同様に、現存する九州年号史料をたくさん集め、その多数決で九州年号の原型を決めるという方法も非学問的なのです。20年前の古田先生の教えを、今回『新撰姓氏録』を再読しながら懐かしく思い起こしました。
 「必要にして十分な論証を抜きにして、安易な原文改訂にはしってはならない」という古田先生の教えとともに、この史料批判に対する姿勢についても忘れないようにしたいと思います。


第921話 2015/04/12

『新撰姓氏録』の「光井女」

 『筑後志』三潴郡の「威光理明神」は神武記に見える「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった今回の探索は、伊勢神宮にまで行き着きついたのですが、伊勢神宮末社の伊我理神社の御祭神が伊我理比女命という女性であったことに、ちょっとおどろきました。というのも、かなり昔に『新撰姓氏録』の研究を行ったとき、次のような記事があり、よく理解はできませんでしたが、当時から注目していました。『新撰姓氏録』「大和国神別」に見える「吉野連」の次の記事です。

 「神武天皇が吉野へ行幸し、神の瀬に至り、水汲みに人を派遣した。帰った来た使者が言うには、光井女がいたと。天皇が召し出して名を尋ねたところ、わたしは天降り来た白雲別神の娘で、名前は豊御富ですと答えた。そこで天皇は水光姫と名付けた。今、吉野連が祭る水光神とはこのことである。」(古賀訳)

 この『新撰姓氏録』の記事は、当時の吉野連の伝承と記紀に見える「井氷鹿」「井光」記事から成立したものと思いますが、「光井女」と女性の伝承となっています。ちなみに記紀の記事からは性別はわかりません。伊勢神宮の末社に祭られた伊我理比女と『新撰姓氏録』の「光井女」(豊御富・水光姫)記事はともに女性の伝承としていますから、もしかすると三潴郡の威光理明神も女性かもしれませんが、今のところ判断できません。
 なお、佐伯有清さんの『新撰姓氏録の研究』(吉川弘文館)によれば、『新撰姓氏録』の諸版本には「井光女」とあり、諸本には「光井女」とあるとのこと。(つづく)


第920話 2015/04/12

伊勢神宮外宮末社の井中神社

 伊勢神宮外宮末社の伊我理神社を調べていて興味深いことを知りました。伊我理神社内に井中神社が同座しているのです。明治時代に井中神社が別のところから伊我理神社に遷座したようですが、このことについて詳細な事情はわかりませんので調査中です。
 この井戸の神様と思われる井中神社が同座しているという事実は、伊我理神社も「イノシシ退治の神」というよりも、本来は井戸に関わる神ではないかと、わたしは考えたのです。伊勢神宮内に数ある摂社・末社の中から、伊我理神社ををわざわざ選んで同座させたのですから、少なくとも明治時代に同座先を選んだ人々は、そのように認識していたのではないでしょうか。そうしますと、伊我理神社は記紀に見える「井氷鹿」「井光」と無関係ではないと思われるのです。
 『古事記』神武記によれば、「吉野河の河尻」の井戸から現れた「国神」が「井氷鹿」と名乗りますから、「井氷鹿」は井戸の神様、あるいは井戸と関わる神様と理解されます。従って、久留米市の威光理明神も伊勢神宮の伊我理比女命も本来は井戸に関わる同一人物(神様)ではないでしょうか。
 こうした思いつきを確かめるべく、インターネットで調査していましたら、伊勢神宮崇敬会神宮会館のホームページに次のような説明がありました。転載します。

伊我理神社(いがりじんじゃ)豊受大神宮末社
伊我理比女命(いずりひめのみこと)
祭神は外宮御料田の井泉の神、伊我理比女命。末社の井中神社(いなかじんじゃ)が御同座されている。古く外宮御料田の耕種始めの神事が行われ、猪害を防ぐ意味のお祭りであり、猪狩(いかり)がその名の由来といわれている。参道右手斜め上の神社は度会大国玉比賣神社である。

■伊我理神社御同座(一緒に祭られている神社です)
井中神社(いなかじんじゃ)豊受大神宮末社
井中神(いなかのかみ)
かつては外宮の御神田の井泉の神として仰がれたと伝わる。

 この解説によると伊我理神社も井中神社も「井泉の神」とされており、わたしの思いつきと一致しています。伊勢神宮と関わりが深い神宮会館のホームページですから、伊勢神宮の見解を表していると見なしてよいと思いますが、現地調査を行い、確認する必要があります。
 こうして、『筑後志』の「威光理明神」は「井氷鹿」のことではないかとする思いつきから始まった探索は、伊勢神宮にまで行き着き、いずれも「井戸」との関わりが明確となってました。(つづく)


第919話 2015/04/11

難波京朱雀大路の側溝出土か

 久しぶりに大阪歴史博物館に行ってきました。『葦火』最新号(175号、2015年4月)に黒田慶一さんによる報告「難波京朱雀大路の西側溝か? -朱雀門跡の南方で南北溝を発見-」が掲載されていました。
 同報告によると、前期難波宮の「朱雀門」南方140mで、長さ9.3m以上、幅2.2〜2.8m、深さ0.5mの正南北に延びる溝を検出したとのこと。溝から須恵器・土師器片や布目瓦が出土することから、古代の溝であることは間違いなく、この溝の中心から16.35m東側に、前期難波宮中軸の延長線がはしっています。従って、位置から考えて宮城南門から南へ延びる「朱雀大路」の西側溝である可能性が考えられるとのことです。
 今回の溝から復元される道路幅は32.7mと広く、藤原京の朱雀大路の約25mよりも規模が大きいことになります。これまで難波京から条坊の痕跡はいくつか発見されてきましたが、「朱雀大路」の可能性を示す遺構の出土は初めてです。黒田さんは「道路の幅、側溝の規模ともに、今回の溝は古代主要道路の側溝として遜色ないといえます。位置や規模から考えて、今回見つかった溝が『朱雀大路』の西側溝である可能性は高いでしょう。」とされています。
 こうして九州王朝の副都・前期難波宮の全貌が考古学的に明らかになりつつあります。これからも上町台地から、前期難波宮に関わる遺構の出土や遺物の発見が続くことをわたしは疑えません。とても楽しみです。


第918話 2015/04/10

伊勢神宮外宮末社の伊我理神社

 『筑後志』に「威光理明神社」とあった旧三潴郡の神社が、現在は伊我理神社に名称変更になっているようですが、この理由を明治時代に行われた記紀に見えない「地方神」を淫祠邪教として排斥する運動に対抗して、神社存続のため名前の訓みが類似した伊勢神宮外宮末社の伊我理神社に改名したことによるのではないかと、わたしは推測しています。他方、それでは伊勢神宮の伊我理神社とはいったいどのような神様なのかについて興味がわきました。
 インターネットで簡単に調べてみたところ、御祭神は「伊我理比女命」(いがりひめのこと)とのことで、田畑を荒らすイノシシを狩る神様(猪狩・いかり)と説明されていました。この説明にわたしは「?」でした。イノシシを狩る神様が女性とは、ちょっと理解しにくいと感じたのです。本当にそうだろうか、「いがり」という訓みから、「猪狩」のことと判断され、後付けで「イノシシ退治の神様」とされたのではないかという疑問を抱いたのです。
 たとえば、埼玉県秩父市にある猪狩神社は倭武命のイノシシ退治に由来するとされており、お姫様のイノシシ退治ではありません。なぜ、伊勢の伊我理神社の御祭神は女神なのでしょうか。やはり、本来はイノシシ退治とは無関係な女神ではないでしょうか。(つづく)


第917話 2015/04/09

『古田史学会報』

  127号のご紹介

 今日は仕事で加古川市に来ています。途中、JR新快速の車窓から見える六甲山にも、まだ所々に散り始めた桜を遠望できました。この沿線途中のお気に入りスポットは明石城です。天守閣はないのですが、二つの櫓を両脇に持つ石垣やお堀がとても美しい城郭です。
 『古田史学会報』127号が発行されましたので、ご紹介します。掲載稿は次の通りですが、平田さんは入会間もない新人ですが、テーマも筑後方言に基づく『日本書紀』の史料批判という新たな研究分野で、論証の方法論も手堅くまとめられています。もう一人、安随さんも会報には初投稿ですが、関西例会では古参のメンバーです。関西例会で発表された研究を投稿していただきました。
 安随さんは、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍(2000人)の大半(1400人)は船団を操る「送使団」であり、侵略軍・武装集団ではないとされました。この安随説が正しければ、唐の進駐軍は筑紫を「軍事制圧」するには「少人数」ですし、ましてや九州王朝の「陵墓破壊」などが目的ではない可能性が高くなります。今後の論争や研究の進展が期待されます。
 正木さんと西村さんからは短里についての新発見が報告されました。ますます短里説が正しかったことが明らかになりました。これらの論稿により、『三国志』の短里研究は更にレベルの高い段階へと進みました。
 服部稿は、近年の考古学研究成果を紹介され、大和朝廷一元史観の根拠の一つとなっていた、大和の庄内式土器が全国にもたらされたという従来説は誤りであり、全国に普及した庄内式土器の多くは播磨産であることが、胎土の研究により明らかになったとされました。この間、精力的に取り組まれた服部さんの「考古学」研究により、近畿天皇家一元史観の根拠がまた一つ崩れ去ったようです。
 以上のように、『古田史学会報』127号は大変優れた内容となりました。わたしたち古田学派の陣容が確実に強化された手応えを感じました。
 最後に、古田先生からはギリシア旅行「断念」の一文をいただきました。断念せざるを得なかった先生には申し訳ないことですが、わたしとしてはご高齢をおしてのギリシア旅行を心配していましたので、複雑な心境ではありますが、やはり「安心」しました。先生にはご無理はなされず、長生きしていただきたいと願っています。

【『古田史学会報』127号の掲載稿】
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦
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第916話 2015/04/08

「吉野河の河尻」

  の威光理(いひかり)

 わたしが『筑後志』三潴郡条に見える「威光理」を記紀の神武東征説話中の「井氷鹿」「井光」のことではないかと考えたのは次の理由からでした。
 『古事記』の神武東征説話中の「天神御子」説話は天孫降臨におけるニニギの肥前侵攻説話の盗用と考えられ、たとえば「吉野河の河尻(河口・下流)」という表現は大和山中の吉野川(上流域に相当)は妥当せず、佐賀県吉野ヶ里付近の「吉野河の河尻」と理解しました。この考えが正しければ、神武(わたしの説ではニニギ)が吉野河の河尻で会った「井氷鹿」もこの地方の「神」であったことになり、『筑後志』の「威光理明神」を見たとき、これこそその痕跡ではないかと思ったのです。
 ですから、この仮説の傍証ともなる久留米市の「威光理明神社」を調査したかったのです。現在では「伊我理神社」と表記されているようですが、現地調査により、『筑後志』の「威光理」が本来表記であることが確認できれば、わたしの仮説を強化することができるのです。

(補記)本日、正木裕さんからいただいたメールによると、久留米市の伊我理神社に「威光理神社」という表記があるという報告がネット上にあるとのこと。近藤さんからの調査報告を待って判断したいと思いますが、どうやらわたしの推論は間違っていないようです。