2017年01月10日一覧

第1320話 2017/01/10

中国北朝(北魏)の大義名分

 中国南朝に臣従してきた九州王朝(倭国)でしたが、梁の時代に入ると九州年号「継躰」を建元し、冊封から外れ天子を自称するに至ります。同時に北朝(北魏)との交流が始まった痕跡もあります。
 たとえば北部九州を代表する山でもある英彦山は北魏僧善正が九州年号の教到元年(531)に開基したとされていますし、雷山千如寺の国宝千手観音像の体内仏はその様式が北魏時代の仏像によく似ています。更に『隋書』には九州王朝の天子、多利思北孤と隋との交流が記録されています。このように、九州王朝は南朝梁の冊封から抜けてからは、むしろ北朝との関係を図っているように見えるのです。
 その北朝(北魏)が南朝をどのように認識(表現)していたのかが『北魏書』に記されています。

「(太和三年、479年)是年、島夷粛道成、其の主の劉準を廃し、僭わって自ら立ち、号して斉と曰う。」(『魏書 七上』高祖紀第七上)

 このように南朝斉の天子を「島夷」という蔑称で表記しているのです。この後も南朝の天子は「島夷」と表記されているのですが、南朝は「大陸国家」であり、「島夷」という表現はいくら蔑称とはいえ、地勢的に妥当ではありません。むしろ倭国(九州王朝)こそ「島夷」という表現が妥当でしょう。ちなみに、高句麗などについては「東夷」という伝統的な表記を用いています。

「(太延二年、436)高麗東夷諸国」(『魏書 四上』世祖紀第四上)

 この他にも『魏書』(『北魏書』)には「雑夷」「海夷」という表記も見え、北朝にとっての大義名分による蔑称が散見されるのです。
 なお、南朝に対してなぜ「島夷」という蔑称が用いられのかという面白い問題もあるのですが、古田先生との検討会では、文字通りの「島夷」である倭国と同列視して蔑んだのではないかとする見解(アイデア)で一致しました。もちろん、論証は今後の課題です。