7世紀の編年基準と方法(8)
「よみがえる倭京〈太宰府〉」において、わたしが太宰府条坊都市と一体として造営された北闕型王都の王宮である政庁Ⅱ期も7世紀初頭の造営とした理由は、太宰府条坊研究の先学、鏡山猛さん(九州歴史資料館初代館長)の条坊復元図でした。鏡山さんの復元案によれば条坊と政庁や観世音寺の中心軸などが一致しており、その復元案は太宰府条坊研究において有力説とされてきました。わたしも鏡山説に基づき政庁Ⅱ期と条坊の造営を同時期と見なし、通説の8世紀初頭に対して、九州王朝の天子・多利思北孤による7世紀初頭(倭京元年〈618〉が有力)の造営とする仮説を発表したのです。
ところがその自説は出土土器の考古学編年と一致せず、観世音寺創建年とのずれという問題もあって、わたし自身も不完全な仮説と感じていました。そうしたとき、「古田史学の会」関西例会で驚くべき報告が伊東義彰(古田史学の会・会員、元会計監査)さんからなされました。2009年7月の関西例会で、伊東さんは井上信正さん(太宰府市教育委員会)の新説を紹介され、それは政庁Ⅱ期や観世音寺よりも条坊都市が先行して造営されていたというものでした。そのときのことを「洛中洛外日記」に紹介していますので転載します。(つづく)
【以下、転載】
古賀達也の洛中洛外日記
第216話 2009/07/19
太宰府条坊の再考
(前略)
伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に造られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
(後略)