土器と瓦による遺構編年の難しさ(3)
土器の相対編年はその様式(スタイル)や大きさの変化に基づいて行われており、先後関係は出土層位の差を利用したり、遺構の成立年を文献(主に『日本書紀』)の記述にリンクすることにより定められています。その結果、『日本書紀』に記述されている畿内(飛鳥地方)の遺構の暦年とのリンクで成立した「飛鳥編年」を基本にして、全国の遺跡から出土した土器や遺構を編年するという手法が一般的にとられています。近年ではそれを基本にしながらも地域差に配慮した補正も行われるようになりましたが、根本は近畿天皇家一元史観に基づく『日本書紀』リンク編年(飛鳥編年)が一元的に採用されているのが実態のようです。
「飛鳥編年」はその基礎データの数値や認識が間違っており、信頼性に疑問があることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が既に発表されています。更に10年単位で7世紀の土器編年が可能とする「飛鳥編年」に対して、そこまで厳密に断定することはできず、逆に編年を間違ってしまう可能性があるという意見をある考古学者からお聞きしたことがあります。わたしもこの意見に賛成です。
そもそも土器に製造年が書いてあるわけでもありませんし、土器そのものも破損するまで長期間使用されるのが普通と思われますから、ある様式の土器が出土したからといって、その出土層位や遺構の編年を土器の「飛鳥編年」にリンクするというのは危険です。更には土器様式そのものにも発生期から流行期・衰退期・生産中止期という恐らく数十年という変遷(ライフサイクル)をたどりますから、「飛鳥編年」により10年単位で遺構を編年できると考える方がおかしいと思います。
その具体的事例を紹介しましょう。前期難波宮整地層から極少数出土した「須恵器坏Bと思われる土器」を根拠に、それが「飛鳥編年」では660年頃と編年されていることから、前期難波宮造営は660年を遡らないとする批判が少数の考古学者から出されたことがありました。そこで難波宮発掘に関わってこられた複数の考古学者の見解を聞いてみたところ、大阪府文化財センターの考古学者は「その土器はやや大きな須恵器であり、いわゆる須恵器坏Bの範疇には入らない」とのご意見でした。また大阪歴博の考古学者の見解は「須恵器坏B発生の初期段階のものであり、7世紀中頃と見なせる」というものでした。その上で、前期難波宮整地層や前期難波宮の水利施設から大量に出土した土器が7世紀前半から中頃とされる須恵器坏Gであることが決定的証拠となり、前期難波宮を孝徳期の造営とする説がほとんどの考古学者に支持されるに至ったと説明されました。(つづく)