2020年02月29日一覧

第2095話 2020/02/29

三十年ぶりの鬼室神社訪問(6)

 約三十年前、わたしが鬼室集斯墓碑の研究を始めた頃、同墓碑研究の先学の存在を知りました。胡口康夫さんという研究者です。実地調査に基づく実証的な研究を得意とされる方で、その論文「鬼室集斯墓碑をめぐって」(『日本書紀研究』第十一冊、1979年)に興味深い史料が紹介されていました。それは胡口さんが現地調査により見いだされたもので、鬼室集斯の末裔を称しておられる日野町小野の辻久太郎家に伝わる『過去帳』の次の記事です。

「鬼室集斯が庶孫ニシテ室徒中ノ
 筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士
 トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ名ハ代々
 久右衛門ト称ス
 近江国蒲生郡奥津保郷小野村
 ノ住人(略)
       辻久右衛門尉
 宝永三年(一七〇六)正月 釈 念心」

 この『過去帳』などから、小野では鬼室集斯の末裔が鬼室神社の氏子や神職として代々続いていたことが判明したのです。
 その後、わたしと胡口さんとの間で学問的交流が始まり、著書『近江朝と渡来人―百済鬼室氏を中心として』(雄山閣刊、1996年)を贈呈していただきました。その中に、鬼室集斯墓碑江戸期偽造説を否定する新発見の史料が紹介されていました。(つづく)


第2094話 2020/02/29

三十年ぶりの鬼室神社訪問(5)

 紹介してきた瀬川欣一さんによる鬼室集斯墓碑江戸期偽造説は、坂本林平の『平安記録楓亭雑話』や司馬江漢の『江漢西遊日記』を史料根拠として実証的に成立しており、簡単には否定し難い有力なものでした。しかし、それでも古田先生とわたしは論理的考察(論証)の結果から、偽造説に納得できませんでした。それは次のような考え方によります。
 偽造説では、偽造者がわざわざ疑われるような『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記したりするだろうか、という基本的な疑問をうまく説明できない(『日本書紀』では朱鳥は元年で終わっている)。すなわち、偽造者を『日本書紀』天智紀の鬼室集斯を知っている博学な知識人とする一方で、『日本書紀』に存在しない「朱鳥三年」という年次を記す「うかつ者」とする、矛盾した人格に仕立て上げる「無理」を偽造説では回避できません。
 従って、わたしたちは論理の上から、同墓碑は七世紀末に成立した同時代金石文と見て問題ないという立場にこだわったのです。この研究姿勢こそ、村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んずる」ということに他なりません。そして、この論証を支持する史料根拠を探し求めました。そこで、「発見」したのが司馬江漢の『西遊旅譚』です。
 司馬江漢は『江漢西遊日記』とは別に、この時の旅行記を『西遊旅譚』として刊行しています。同書は旅行から帰った翌年の寛政二年(一七九〇)四月に出版のための原稿が成立しており、その年に出版されているようです。その『西遊旅譚』の日野に立ち寄った当該記事には、この八角石について「人魚墳八方なり文字あれども見えず」と記しているのです。すなわち、文字があったと司馬江漢は述べているわけで、「文字見えず」あるいは「文字ナシ」とした『江漢西遊日記』とは異なっています。史料の信憑性から見れば、旅行から帰った翌年に成立した『西遊旅譚』に比べ、『江漢西遊日記』の成立は文化十二年(一八一五)、『西遊旅譚』に遅れること二五年であり、司馬江漢最晩年のものです(司馬江漢の没年は文政元年、一八一八)。したがって、旅行と刊行時期が近い『西遊旅譚』の方が信頼性が高いのです。
 こうした史料成立状況から見れば、江漢晩年発刊の『江漢西遊日記』の記事をもって、八角石に文字無しと決めつけるのは不適切です(この件については、後に紹介する胡口康夫氏の『近江朝と渡来人–百済鬼室氏を中心として』雄山閣刊、一九九六年十月、にも同様の指摘がなされています)。こうして、江戸期偽造説の根拠の一つを否定できる史料事実を見つけ出したのです。(つづく)