文武天皇「即位の宣命」の考察(7)
文武天皇「即位の宣命」第二節では次の二つのことを主張しています。一つは、持統天皇(倭根子天皇命)の権威の淵源が、高天原の神話時代に始まる天神(天に坐す神)により任命された「天つ神の御子」であり、「遠天皇祖の御世」から「中今に至るまで」の歴代天皇の後継者であることによるとする次の記事です。
「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまでに、天皇が御子のあれ坐(ま)さむ彌(いや)継々(つぎつぎ)に、大八島国知らさむ次と、天つ神の御子ながらも、天に坐す神の依(よさ)し奉りしままに、この天津日嗣高御座(あまつひつぎたかみくら)の業(わざ)と、現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命」
そして二つ目が、その持統天皇(倭根子天皇命)から禅譲を受けたことを文武天皇即位の根拠とする次の記事です。
「現御神と大八島国知らしめす倭根子天皇命の、授け賜ひ負(おは)せ賜ふ貴き高き広き厚き大命を受け賜り恐(かしこ)み坐して、この食国(をすくに)天下を調(ととの)へ賜ひ平(たひら)げ賜ひ、天下の公民を恵(うつくし)び賜ひ撫で賜はむとなも、神ながら思しめさくと詔(の)りたまふ天皇が大命を、諸聞(きこ)し食(め)さへと詔る。」
いずれもキーパーソンは持統天皇であることが重要です。この持統天皇の権威の淵源が、高天原から天神の御子へと続いた歴代天皇の後継にあるとの主張を、現代のわたしたちは『古事記』『日本書紀』に記された天孫降臨以降の近畿天皇家の系譜と後継のことと考えてしまいます。しかし、文武天皇「即位の宣命」が出されたのは『古事記』『日本書紀』成立以前であり、末期とは言え九州王朝の時代ですから、720年に編纂される『日本書紀』の歴史観など国内の諸豪族にとって恐らく知るよしもありません。ですから、「高天原に事始めて、遠天皇祖の御世、中今に至るまで」の「天皇」と宣命で述べられたとき、それは九州王朝の歴代「天皇」のことと理解されてしまうのではないでしょうか。少なくとも、歴代九州王朝の天子(「天皇」)のことが脳裏をよぎったであろうことをわたしは疑えません。
従って、この宣命の内容では、九州王朝とその史書に書かれていたであろう「系譜と歴史」のことを知っている同時代の人々に対しては説得力を欠くように思われます。そして、持統天皇の権威の淵源に説得力がなければ、その持統天皇の禅譲による文武の天皇即位も説得力を持つことはできません。しかし、この宣命の四年後(701年)に九州王朝から大和朝廷への王朝交替が大きな抵抗もなく行われています。そうであれば、持統や文武はどのような根拠や説明によって諸豪族を説得したのでしょうか。(つづく)