古田武彦先生の遺訓(7)
貝原益軒『養生訓』と嵆康『養生論』
今回はちょっと脇道にそれて、周代の二倍年齢の記憶が失われた後代において、「百歳」などの長寿表記がどのように認識されていたのかについて、象徴的な二例を紹介します。一つは筑前黒田藩の儒者、貝原益軒(1630年~1714年)の『養生訓』、もう一つは中国三国時代の魏の文人で竹林の七賢人の一人、嵆康(けいこう。224年~262あるいは263年)の『養生論』です。
益軒の『養生訓』には次の記事があります。
「人の身は百年を以て期(ご)となす。上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十なり。六十以上は長生なり。世上の人を見るに、下寿をたもつ人すくなく、五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり、といへるは、虚語にあらず。長命なる人すくなし。五十なれば不夭と云て、わか死にあらず。人の命なんぞ如此(かくのごとく)みじかきや。是(これ)、皆、養生の術なければなり。」(『養生訓』巻第一)
この「人の身は百年を以て期となす」という益軒の認識は「周代」史料に基づいています(注①)。江戸時代の益軒には二倍年暦(二倍年齢)の概念がありません。ですから、当時の人々の寿命について、「五十以下短命なる人多し。人生七十古来まれなり」と述べ、「人の命なんぞ如此みじかきや」と嘆き、その理由を「皆、養生の術なければなり」と結論づけ、『養生訓』を著したわけです。
益軒は他人に養生を説くだけではなく、自らも健康に留意した生活をおくっていたようで、当時としては長寿の85歳で没しています。ですから、一倍年齢では「中寿(80歳)」をクリアしたわけです。二倍年齢なら170歳ですから、周代の聖人らの上寿(100歳)を超えています。もし、益軒が二倍年齢を知っていたなら、このことを喜んだかもしれませんが、『養生訓』の内容は今とは大きく異なっていたことでしょう。
次いで、嵆康の『養生論』冒頭に次の記事が見えます。
「世或有謂神仙可以学得、不死可以力致者。或云上壽百二十、古今所同、過此以往、莫非妖妄者。此皆両失其情。試粗論之。夫神仙雖不日見、然記籍所載、前史所傳、較而論之、其有必矣。(後略)」(『養生論』)
【釈文】「世に或は謂うあり、神仙は学を以て得ベく、不死は力を以て致すべし。或いは云う、上壽百二十は古今の同じき所を以て致すべしと。これを過ぎて以往は妖妄に非るはなしと。これ皆ふたつながら其の情を失えり。…それ紳仙は目もて見ずと雖も、然れども記籍の載するところ、前史の傳うるところ、較して之を論ずれば、その有ること必せり。」(注②)
ここには、「或いは云う」として「上壽は百二十(歳)」とあり、そのことは「記籍の載するところ、前史の傳うるところ」とありますから、漢代や周代の史料の云うところとして「上壽は百二十(歳)」という嵇康の認識が示されています。
嵇康は神仙思想の持ち主のようですから、人は正しく養生すれば百二十歳の寿命が得られ、更には千歳・数百歳も可能と後文には記しています。しかし、残念ながら嵇康自身は四十歳で刑死しており、神仙の術を会得していなかったようです。もちろん二倍年暦(二倍年齢)の概念は『養生論』からはうかがわれません。(つづく)
(注)
①「百年を期といい、やしなわる。」(『礼記』曲礼上篇)
「人、上寿は百歳、中寿は八十、下寿は六十。」(『荘子』盗跖篇)
②福永光司「嵇康と佛教 —六朝思想史と嵇康—」(『東洋史研究』20(4)1962年)による釈文。