大宰政庁Ⅱ期創建年代のエビデンス (3)
大宰府政庁Ⅱ期の創建年代を通説では八世紀初頭としており、その根拠として、土器編年と出土木簡があります。土器編年は基本的に相対編年であるため、暦年とどのようにリンクできるのかという難題があります。そこで重要となるのが木簡の編年(年代観)です。
政庁Ⅱ期北面築地塀の下層から出土した木簡に「竺志前」と書かれたものがあり(注①)、これは『大宝律令』により筑前と筑後に分割された筑前国を意味することから、同遺構の造営は『大宝律令』(701年成立)以後とされたのですが、この判断は正しいでしょうか。九州王朝説に基づく文献史学による研究では(注②)、九州島の九国への分国は、多利思北孤による七世紀初頭と考えていますが、考古学エビデンスによっても七世紀に遡ると考えています。その根拠は2012年に太宰府市から出土した戸籍木簡です(注③)。
大宰府政庁の北西1.2kmの地点、国分寺跡と国分尼寺跡の間を流れていた川の堆積層上部から、「天平十一年十一月」(739年)の紀年が記されたものや、評制の時期(650年頃~700年)の木簡が出土しました。その中に、「嶋評戸籍」木簡と一緒に「竺志前國嶋評」と記された木簡がありました。わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。「評」木簡ですから、700年以前ですが、更に「嶋評戸籍」木簡に見える位階「進大弐」は、『日本書紀』天武十四年条(685年)に制定記事があり、その頃の木簡と推定できます。従って、九州島の分国時期は遅くとも685年頃よりも前になります。そうすると、大宰府政庁Ⅱ期下層から出土した「竺志前」を『大宝律令』以後とする根拠が失われるのです。
このように、政庁Ⅱ期造営を八世紀初頭としてきた根拠が失われたことにより、その造営は七世紀後半まで遡りうることになったわけです。そうすると、政庁Ⅱ期に先行し、七世紀末頃の造営(井上信正説)とされてきた太宰府条坊の年代は更に遡り、わたしの太宰府年代観(政庁Ⅰ期と条坊は七世紀前半~中頃、政庁Ⅱ期造営を670年頃とする)に近づきます。この理解が正しければ、太宰府地域の七世紀の須恵器編年も同様に繰り上がります。詳細な編年見直しには更なる研究が必要ですが、九州王朝の都、太宰府条坊都市の復元研究に大きく影響するものと考えています。(おわり)
(注)
①次の銘文を持つ木簡が出土している。
(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の成立」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』2000年、明石書店。
③当戸籍木簡には次の文字が記されている。
《表側の文字》
嶋評 戸主 建ア身麻呂戸 又附加□□□[?]
政丁 次得□□ 兵士 次伊支麻呂 政丁□□
嶋ー□□ 占ア恵□[?] 川ア里 占ア赤足□□□□[?]
少子之母 占ア真□女 老女之子 得[?]
穴□ア加奈代 戸 附有
《裏側の文字》
并十一人 同里人進大弐 建ア成 戸有一 戸主 建[?]
同里人 建ア昨 戸有 戸主妹 夜乎女 同戸有[?]
麻呂 □戸 又依去 同ア得麻女 丁女 同里□[?]
白髪ア伊止布 □戸 二戸別 戸主 建ア小麻呂[?]
(注記:ア=部、□=判読不能文字、[?]=破損で欠如)