『多元』179号の紹介
友好団体の多元的古代研究会機関紙『多元』179号が届きました。新年号の日付がありますが、有り難いことに、同紙は毎年の年末に新年号が届くので、年末年始での拝読を楽しみにしています。
同号には拙稿〝九州王朝の両京制を論ず (一) ―列島支配の拠点「難波」―〟を掲載していただきました。同紙178号にあった、上城誠氏の「真摯な論争を望む」に、次のような拙論「前期難波宮九州王朝王都説」への批判がなされており、それへの反論です。
云わく、〝文献的裏付けは何もなく、考古学的裏付けもなく、根拠となるのは「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」という古賀達也氏の思考だけ〟という論難に対して、この十数年間に発表した前期難波宮に関する論文約50編のタイトルを列挙し、「七世紀半ば、近畿天皇家が巨大王宮を建設するのを九州王朝が許すはずがない」というわたしの思考だけでは、これだけの論文を書けないこと、拙論のエビデンスとした文献史料や考古学的根拠を具体的に示しました。
これから続編を書きますが、そこでは前期難波宮が太宰府からの遷都ではなく、複数の都を持つ九州王朝の両京制の東都とする説へと発展した理由などを紹介する予定です。
同号の一面には服部静尚さんの論稿「筑後遷都説、高良玉垂命九州王朝天子説に異論を呈す」が掲載されていました。古田先生やわたしが提唱した九州王朝の筑後遷都説(先生は遷宮説)への批判論文です。本来であれば古田先生から反論がなされるのが筋ですが、亡くなられた先生に代わって、わたしから筑後遷宮説に至った理由とエビデンスについて説明したいと思います。更に、同じ筑後遷宮説でも、古田先生とわたしとでは年代観が異なっていますので、その点についても深く考察します。
現在、「古田史学の会」で進めている諸事業(新春古代史講演会、『古代に真実を求めて』27集編集、他)や『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)の執筆・編集作業が一段落したら検討予定です。