『東京古田会ニュース』No.214の紹介
『東京古田会ニュース』214号が届きました。拙稿「藤原宮『長谷田土壇説』の再考察」を掲載していただきました。同稿は、八王子セミナー(注①)での藤原宮(京)研究において注目された〝もうひとつの藤原宮「長谷田土壇」〟について考察したものです。
藤原宮の所在地については江戸時代から大宮土壇(橿原市高殿)が有力視され、大正時代には喜田貞吉が長谷田土壇説(同市醍醐)を発表しました。その後、大宮土壇から大型宮殿遺構が出土したことで論争は決着しましたが、わたしは喜田の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注②)で表明しました。喜田説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるため、大宮土壇の北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形の条坊都市となることです。
そこで、八王子セミナーに先だって長谷田土壇説を再検討し、そこが王宮であれば、その南北の通りが朱雀大路となり、他の条坊大路よりも幅が大きいはずと考えました。ところが長谷田土壇を南北に通る「二坊大路」の幅は約16mであり、他の偶数大路(四条(坊)、六条(坊)など)と同規模です。他方、大宮土壇にあった藤原宮の朱雀大路は約24mであり、藤原京内では最大です。
ちなみに、九州王朝の倭京(太宰府条坊都市)の朱雀大路は(路面幅)約36m・(側溝芯々間)約37.8m。同じく難波京は約33mで、藤原京より大きいのです。大和朝廷が王朝交代後に造営した平城京は更に巨大化し、朱雀大路幅は約75mです。
これらの朱雀大路幅を比較すると、長谷田土壇の南北の大路は、朱雀大路としては小さいのです。従って、長谷田土壇を九州王朝や近畿天皇家の王宮とするのは困難であることに気づきました。まだ結論は出ていませんが、朱雀大路の幅という視点は、王宮評価における一つの判断基準として有効ではないかと指摘しました。
前号に続いて一面には、竹田侑子さん(弘前市、秋田孝季集史研究会々長)の「消えた卑弥呼(2) 卑弥呼は板乃木邑の荒覇吐宮に入り遺陀呼(イダコ)となったか」が掲載されました。和田家文書に見える卑弥呼伝承に着目した論稿です。竹田さんには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)にも原稿「和田家文書を伝えた人々」を書いていただきました。これを機会に、和田家文書研究が更に活発となることを願っています。
(注)
①正式名は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウス主催。2023年11月11~12日に開催。
②古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013)〝二つの藤原宮〟、545話(2013)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟