2024年02月15日一覧

第3228話 2024/02/15

『古田史学会報』180号の紹介

 本日発行された『古田史学会報』180号を紹介します。同号には拙稿「論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出―」を掲載して頂きました。
同稿は、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から、「覚信尼と『三夢記』についての考察 豅弘信論文への感想」(『古田史学会報』178号)への批評を求められたおり、古田先生の親鸞研究関連著作を読み直したことをきっかけに、その代表作『親鸞思想』(冨山房、1975年)出版に関する思い出を綴ったものです。近年、古田学派内でも古田親鸞論の研究や論稿を久しく見なくなりましたので、わたしの記憶が鮮明なうちに、先生から直接お聞きしたことを書き残しておこうと考えています。

 一面の正木稿は、新年早々に茂山憲司さん(『古代に真実を求めて』編集部)から届いたメール情報(「南日本新聞」元旦の記事)に基づいて書かれたもので、鹿児島県指宿市(尾長谷迫遺跡)から出土した暗文土師器について論じた好論です。従来は大和朝廷に関係する遺構(国府跡など)からしか出土しない同土師器が、九州王朝時代の七世紀中葉の薩摩の遺跡から出土したことで、当地のメディアに注目されたようです。これは、正木さんがこれまで発表されてきた、天智の后、倭姫王が薩摩出身の〝九州王朝の姫〟(『続日本紀』には「薩末比売」、現地伝承では「大宮姫」)とする一連の仮説と整合する出土事実であり、正木説を支持する考古学的傍証となります。

 近年では、九州王朝(倭国)と鹿児島県との関係をうかがわせる「青竹の笛」伝承研究も伊藤正春さん(古田史学の会・会員、練馬区)から発表されており、注目しています(注)。

 180号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』180号の内容】
○「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」 川西市 正木 裕
○皇極はなぜ即位できたのか 河内祥輔・神崎勝両氏の問題提起を受けて たつの市 日野智貴
○野田利郎氏の「邪靡堆」論と漢文解釈への疑問 神戸市 谷本 茂
○論文削除要請された『親鸞思想』―古田武彦「親鸞論」の思い出― 京都市 古賀達也
○「中天皇」に関する考察 茨木市 満田正賢
○持統天皇の「白妙の衣」は対馬の鰐浦の白い花のこと 京都市 久冨直子・大山崎町 大原重雄
○令和六年、新年のご挨拶 ―「立正安国論」日蓮自筆本の「国」― 「古田史学の会」・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己

(注)
美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』勝美印刷、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2597話(2021/10/18)〝美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む〟
同「洛中洛外日記」2604話(2021/10/27)〝大隅国、台明寺「青葉の笛」伝承〟
同「洛中洛外日記」2633話(2021/12/11)〝失われた九州王朝の横笛か「清水の笛」〟
「失われた九州王朝の横笛 ―「樂有五絃琴笛」『隋書』俀国伝―」『古田史学会報』168号、2022年。

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YouTube講演 案内 

古代大和史研究会(59)2024年1月23日 於:奈良県立図書情報館

倭国(九州王朝) から日本国(大和朝廷) へ⒀

「倭姫王」と発掘された「暗文土師器」正木裕

https://www.youtube.com/watch?v=8DDjZ2nPxW0


第3227話 2024/02/15

難波京条坊研究の論理 (4)

  難波京条坊研究において、当初は考古学的調査の過渡期で出土遺構例が充分ではなかったこともあり、たとえば植木久さんの『難波宮跡』(2009年、注①)では、なんらかの方格地割りの施工が七世紀中頃から七世紀末になされた可能性があると表現しています。こうした経緯に基づき、難波京の展開を論じたのが積山洋さんでした。

 積山さんの博士号論文「古代都城と難波宮の研究」(2009年、注②)は、難波京を初期(孝徳朝)、前期(天武朝)、後期(聖武朝)の三段階に分け、初期難波京では宮の外郭ラインを延長するという〝条坊制ではない方画プラン〟が施行されたとします。そして前期難波京では天武天皇の複都制構想のもと、〝方900尺の方画地割〟が部分的に施工され、その後、聖武天皇が天武天皇の意志を継いで〝条坊区画〟を伴う後期難波京を造営したとします。この理解は『日本書紀』や『続日本紀』の記事を前提(史実)として考古学的知見を当てはめたもので、基本的に一元史観の文献史学の通説を是とする立場と方法に立脚しています。

 博士号論文の四年後に出された『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』(注③)では、増加した発掘調査による知見も取り入れ、本格的に条坊が整備され始めるのは前期難波京(天武朝)であり、藤原京と併行するとしています。この積山説はほぼ定説となりました。

 この積山説の年代観に疑義を呈したのが佐藤隆さんでした(注④)。佐藤さんも「古田史学の会」で講演(注⑤)していただいたことがある大阪市の考古学者で、その優れた諸論文、なかでも「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注⑥)をわたしは高く評価し、古田学派研究者や古田説支持者にくり返し紹介してきました(注⑦)。(つづく)

(注)
①植木久『難波宮跡』同成社、2009年。
②積山洋「古代都城と難波宮の研究」大阪市立大学、学位論文(文学博士)、2009年。
③積山洋『古代の都城と東アジア(大極殿と難波京)』清水堂出版、2013年。
④佐藤隆「古代難波地域における開発の諸様相 ―難波津および難波京の再検討―」『大阪歴史博物館 研究紀要』第17号、2019年。
⑤佐藤隆氏(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」、新春古代史講演会2022。1月15日、会場:i-site なんば(大阪府立大学難波サテライト)。
⑥同「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴史博物館 研究紀要』第15号、平成29年(2017)3月。
⑦古賀達也「洛中洛外日記」1406話(2017/05/27)〝大阪歴博『研究紀要』15号を閲覧〟
同「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟
同「前期難波宮の考古学 飛鳥編年と難波編年の比較検証」『東京古田会ニュース』175号、2017年。
同「洛中洛外日記」1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)“七世紀後半の難波と飛鳥”〟
同「『日本書紀』への挑戦《大阪歴博編》」『古田史学会報』153号、2019年。
同「洛中洛外日記」2600話(2021/10/22)〝佐藤隆さん(大阪歴博)の論文再読(2)〟
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
同「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」『多元』176号、2023年。