2024年06月12日一覧

第3302話 2024/06/12

難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)

 昨日、書架整理のため不要となった蔵書をご近所の古書店に売却し、そのお金で山根徳太郎著『難波の宮』(学生社、昭和39年)を購入しました。60年前の古い本ですので、最新発掘調査に基づく研究論文執筆に役立つこともないと思い、これまで読もうともしなかったのですが、気になってはいたので今回買って読みました。

 難波宮発掘と遺構保存に至る山根徳太郎さんのご苦労は、大阪歴博の特別展(注)などで知ってはいたのですが、同書を読んで、発掘費用不足や学問的に有力な批判に山根さんが苦しんでいたこともよくわかりました。
同書には、発掘費用調達に山根さんが苦しんでいたとき、教え子たちから寄附がよせられた逸話が次のように記されており、わたしも胸が熱くなりました。

〝このように、掘りだすたびに、一歩一歩と「難波の宮」の全貌が、大阪の中心部、法円坂町の台地上に浮かびあがろうとしている。しかし、一方、世間の人のなかには、まだまだこれらの成果をまったく認めない人も多い。学者のなかでも、現在までの成果では、難波の宮と認めず、わたしたちの努力を否定しようとされる方も少なくなかった。(中略)

 わたしは何といわれようとも、学問的成果には、深く心に期するところがあったが、ホトホト弱ったのは、研究資金の不足であった。(中略)

 そのころ、昭和三十一年十月十日の日、京都のわたしの宅に史泉会(大阪商大関係の歴史研究者の会)の古い会員の方が見えて、なつかしい昔話の後、封筒をわたしの前にさし出した。

 「先生、これは先生が難波の宮の発掘資金にお困りになっているのをみかねて、教え子たちが持ち寄ったものです。どうぞ発掘のお役に立ててください」(中略)

 「それはありがたいが、いったい誰がそのようなお金をくれたのか、知らせてほしい。名前を教えてくれ、でないとぼくは受取れない」(中略)

 この後、わたくしは、それらの人に会うたびに名前を知らせてくれるように、幾たびか申出た。そして翌三十二年の八月になって、やっと醵出者名簿が送られてきた。開いてみると、みな教え子ばかりで、一五〇人の名が記されていた。一人一人涙をおしぬぐいながら名簿を見つづけていたところ、その中の一人に、豊子という婦人の名前がある。その御主人はよく知っていた人であるが、さきごろ交通事故で世を去られた方である。その人の未亡人で、遺児を抱えて苦労していると聞いていた。そのような方まで募金に応じてくださると知っては、もはやわたくしには堪えられることではない。このようなことにならねばならないのならば、研究は止めにする。「どうぞこのような浄財の募集はしないようにして下さい」と、恒藤先生(大阪商大学長)にお願いしたことであった。(中略)

 このように浄財の寄進によって、昭和三十二年八月十二日から十月三十日までに実施した、第七次発掘には、じつに予想外の大きな成果があがった。近世大阪の発祥と目すべき石山本願寺の発見である。〟140~143頁(つづく)

(注)難波宮発掘調査60周年記念 特別展 大阪遺産難波宮 ―遺跡を読み解くキーワード― 大阪歴史博物館 平成26年(2014)


第3301話 2024/06/12

金光上人関連の和田家文書 (3)

 和田家文書の金光上人史料を研究した佐藤堅瑞氏(青森県西津軽郡柏村・淨円寺住職)へのインタビューを紹介しましたが、その数年後、偶然にもわたしは佐藤堅瑞さんと拙宅近くで出会いました。再会を喜び、聞けば娘さんが上京区に住んでおられ、この時期は京都に来て同居しているとのことでした。しかも拙宅の近くでしたので、日を改めて古田先生と二人でご挨拶にうかがいました。そこには石塔山神社の収蔵庫で見たスフインクスの像があり、古田先生は懐かしそうにしておられました。

 古田先生やわたしと一緒に和田家文書調査をした東京学芸大学教授の西村俊一さん(注①)も佐藤堅瑞さんに聞き取り調査をされており、そのことを同志社大学で開催された日本国際教育学会にて発表しています。報告集の関係部分を転載します(注②)。

〝日本国際教育学会 1999年11月7日
第10回大会報告 (於)京都・同志社大学
「日本国の原風景 ―「東日流外三郡誌」に関する一考察―」
西村俊一(東京学芸大学)
《前略》
3)浄円寺佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)の証言
当方は、1999年(平成11年)9月19日、他の研究者数名と共に浄円寺(西津軽郡柏村大字桑野木田)に佐藤堅瑞住職(元青森県仏教会々長)を訪ね、聞き取りを行った。彼は、和田喜八郎が資料を発見した当時の相談相手であった由であるが、大変穏和な人柄の宗教者であった。彼は、当時、「和田家資料」の中にそれまで知られていなかった『金光上人関係資料』が含まれていることを発見し、その譲渡を申し入れたが、和田喜八郎が応諾しないため、その模写版を作成してもらうこととした。これが、「和田家資料」の模写版作成の始まりであったとされる。

 訪問当日、佐藤堅瑞は、和田喜八郎が新たに持参したという初見の「金光上人関係資料」3点を示しながら、「和田喜八郎に、この様なものは書けませんよ」と、その感懐を漏らした。その意味は、主に金光上人がしたためた他力信仰論の中身に関わるものと解されたが、その資料の中の1点はいわゆる模写版であった。しかし、彼は、そのことに頓着している様子は全くなかった。そして、「偽書」論者の代表とも言うべき安本美典について、「あの人は学者さんでしょう? それがどうしてあんな行動に走るのでしょうねえ。この世の中は、本当に怖いですねえ」という趣旨のことを、問わず語りに語った。
当方は、この聞き取りによって、自らの心証に一つの定かな裏付けを得た様に感じたことを、ここに明記しておきたい。《後略》〟(つづく)

(注)
①西村俊一(1941~2017)。元東京学芸大学教授。国際教育学を専門とし、日本国際教育学会々長に就任。安藤昌益研究に造詣が深く、和田家文書研究にも取り組んだ。
「日本国の原風景 ―「東日流外三郡誌」に関する一考察―」『北東北 郷村研究』第7、8号、北東北郷村教育学院、2000年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/genihonj.html#link