2024年09月一覧

第3357話 2024/09/30

関川尚功先生と東京講演会の打ち合わせ

 今日は奈良市に向かい、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)と二人で関川尚功(せきがわ・ひさよし)先生(元・橿原考古学研究所々員)と10月27日(日)の東京講演会の講演内容について、詳細にわたり打ち合わせを行いました。リハーサルを兼ねて、講演に使用する写真・図約60枚について解説していただきました。

 邪馬壹国時代の弥生後期を中心として、古墳時代前期の畿内と北部九州などから出土した鏡・鉄器製造遺物(ふいご、砥石、小鉄片)・銅鐸、古墳内の石室・木郭などを紹介され、ヤマトには「邪馬台国」の片鱗も見えず、それに比べて北部九州の金属器などの先進性が、これでもかこれでもかと説明が続きました。更に、弥生後期の金属器文化が古墳時代になるとヤマトへ流入したことも教えていただきました。こうしたことを10月27日、東京(文京区民センター)で報告されます。恐らく、関東の皆さんには初めて聞く内容ではないでしょうか。

 関川先生から提供された写真をレジュメとして編集する作業に入ります。『古代に真実を求めて』28集の投稿も多数届いていますので、その査読や自らの研究・執筆、講演の準備などが重なり、10月は超多忙な日々が続きます。健康に留意して頑張りますが、「古田史学の会」を支える次の世代や後継者の発掘・引き継ぎも鋭意進めたいと考えています。皆さんのお力添えもお願いいたします。


第3356話 2024/09/29

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (5)

 『続日本紀』には〝年号+「末」〟表記を持つ卒伝・薨伝が道君首名を含めて七例(注①)ありましたので、各伝の「○○末」の意味について検討します。

 まず、服部さんが指摘した養老二年(718)四月条の道君首名卒伝(注②)ですが、当該部分は次の通りです。

「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」(以下、筑後・肥後での活躍記事が続く)

 和銅年間は八年まで続き、首名が筑後国守に任官したのは和銅六年であり、従って、「和銅末」には同六年が含まれることから、「末」とあっても数年の幅を持ち、古賀のいうような最終年だけを意味しないという批判がなされたわけです。確かに『続日本紀』和銅六年(713年)八月条に「従五位下道君首名為筑後守」とあります。しかし、この批判文を読んで、わたしは服部さんの誤解ではないかと思いました。それは次の理由からでした。

(1) 同卒伝に「和銅末」とあり、「末」の字義からすれば読者は和銅八年のことと理解してしまう。『続日本紀』編纂者が和銅六年(713年)のことと認識していたのなら「和銅中」と書くのではないか。『続日本紀』には「○○中」という用例が少なからずある。

(2) しかも和銅末年に当たる和銅八年(715年)正月条に、「従五位下臺忌寸少麻呂・道君首名並従五位上」との昇進記事があり、従五位上への昇進後に筑後国・肥後国に赴任したのではないか。同年九月には霊亀元年と改元されるので、それまでに赴任したと思われる。

(3) 卒伝には「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國」とあり、この「出爲」という用語(動詞)は、当地に赴任、あるいは、向かっていることを意味するようである(この件、後述する)。なお、『続日本紀』には首名が肥後国守に任官した記事は、この卒伝以外には見えない。当然のこととは思うが、『続日本紀』に全ての役人の任官・昇進記事が書かれているわけではない。このことも後述する。

(4) 首名が筑後国守に任命されたときの位階は従五位下であるが、大・上・中・下とある国のランク(注③)では筑後国は上国であり、『養老律令』官位令の規定によれば、上国の国守の官位は従五位下と定められており、これに対応している。しかし、肥後国は大国であり、国守の官位は従五位上とされており、従五位下のままでは首名が肥後国守を兼任するのは不適切。そのため、和銅八年正月に従五位上への昇進がなされ、それを待って首名は九州に下向したものと思われる。こうした官位令の規定は後に形骸化するが、和銅の頃は守られているようである。

(5) 以上の史料状況から考えると、卒伝の「和銅末(八年・715年)」に筑後国守・肥後国兼任として「出爲」(現地に赴任)したという記事は極めて適切な表現である。

 ここからはわたしの想像ですが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代(701年)して十数年後の九州では隼人の反乱が続いており、その最前線付近と思われる肥後の国守に相応しい従五位上の人物が当初見当たらず、従五位下の道君首名に筑後国守だけではなく、肥後国守も兼務させることにしたため、和銅八年正月に従五位上に昇進させたのではないでしょうか。この朝廷の判断が正しかったことは、卒伝の「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國」直後に続けて、現地での活躍がいくつも書かれていることからも頷けます。

 以上のことから、「和銅末」とは字義の通り、「和銅の末、和銅八年」のこととするのが最も穏当で、そう読むのが普通の理解ではないでしょうか。しかも「出爲」の意味や、担当官位などにも矛盾がありません。このように字義通りの普通の理解で読めるのか、他の伝についても検討を続けます。(つづく)

(注)
①卒伝・薨伝中に「○○末」(○○は年号)という用語を持つもの。
❶養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末」〈和銅8年(715)〉
❷天平神護二年(768)三月条 藤原朝臣真楯卒薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❸延暦二年(783)七月条 藤原朝臣魚名薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❹延暦四年(785)七月条 淡海眞人三船卒伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❺延暦四年(785)九月条 藤原種継薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❻延暦七年(788)七月条 大中臣朝臣清麻呂薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❼延暦八年(789)九月条 藤原朝臣是公薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
※〈〉内の年次はその年号の最終年。
②養老二年(718)四月の「道君首名卒伝」全文。
乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名、少治律令、曉習吏職。和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。勸人生業、爲制條、教耕營。頃畝樹菓菜、下及鶏☆。皆有章程、曲盡事宜。既而時案行、如有不遵教者、隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實、莫不悦服。一兩年間、國中化之。又興築陂池、以廣漑潅。肥後味生池、及筑後往々陂池皆是也。由是、人蒙其利、于今温給、皆首名之力焉。故言吏事者、咸以爲稱首。及卒百姓祠之。
※☆は月偏に屯。豚のこと。
③『延喜式』民部省上によれば、以下の13国が大国、35国が上国、11国が中国、9国が下国とされている。
《大国》
大和国、河内国、伊勢国、武蔵国、上総国、下総国、常陸国、近江国、上野国、陸奥国、越前国、播磨国、肥後国。
《上国》
山城国、摂津国、尾張国、参河国、遠江国、駿河国、甲斐国、相模国、美濃国、信濃国、下野国、出羽国、加賀国、越中国、越後国、丹波国、但馬国、因幡国、伯耆国、出雲国、美作国、備前国、備中国、備後国、安芸国、周防国、紀伊国、阿波国、讃岐国、伊予国、豊前国、豊後国、筑前国、筑後国、肥前国。
《中国》
安房国、若狭国、能登国、佐渡国、丹後国、石見国、長門国、土佐国、日向国、大隅国、薩摩国。
《下国》
和泉国、伊賀国、志摩国、伊豆国、飛騨国、隠岐国、淡路国、壱岐国、対馬国。


第3355話 2024/09/28

『続日本紀』道君首名卒伝の

    「和銅末」の考察 (番外編)

当連載では、『続日本紀』養老二年(718)四月条の道君首名卒伝に見える「和銅末」の「末」に焦点を当てて、『続日本紀』では「末」の字がどのような意味で使われているのかを論じています〈和銅年間の末年は和銅八年(715年)〉。従って、論証が機微に至り、検証対象が広範囲にわたっています。その為か、根源的な問題は何なのかという本来の論点から離れ、「末」の字義についての抽象論や「他の可能性もある」などの一般論(注①)がテーマと受け取られかねないことに気づきました。そこで、本テーマの本来の論点を再確認し、なぜ『続日本紀』の悉皆調査を行っているのかを改めて説明することにしました。そのきっかけの一つとなったのが次の対話でした。

わたしのFacebookで当連載を読んだKさんから質問とご意見が寄せられましたので、次のように返答しました。ちなみに、Kさんは熱心な読者で、真摯かつ鋭い質問や思いもよらぬ視点を度々いただいており、ありがたく思っています。

〝古賀 様 「末」の概念は「本」から離れた先の方とのことのようです。「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅があるようです。故に「最後」だけではないように思えます。ただ、その幅がどれくらいかは難しいのではと思います。〟

〝Kさん、今回の問題の根幹は、船王後墓誌の「アスカ天皇の「末」歳次辛丑(641年)」の「末」をどのように理解するのかにあります。ですから、抽象論ではなく、極めて具体的な文脈中にある「末」について、それを書いた人が、なぜ「末」の一字を墓誌に加えたのかというテーマです。船王後の没年は「歳次辛丑」により特定されており、九州王朝のアスカ天皇の没年がその5年後(注②)であったとするなら、「末」の字は全く不必要です。古田新説ではこの問題に答えることができません。

他方、通説では舒明天皇のこととしますから、舒明は辛丑年に没したと日本書紀にあり、文献と金石文が一致します(古田先生のいうシュリーマンの原則(注③)「史料と考古学事実が一致すれば、それはより真実に近い」です)。古田新説ではこの事実も「偶然の一致」として無視しなければならず、これは学問的ではありません。自説に都合の悪い「末」を本来の字義ではなく、異なる解釈論でスルーしたり、文献と金石文の一致を根拠としている通説を「偶然の一致」として無視するのも、古田先生から学んだ学問の方法とは異なります。

今回の連載では、続日本紀の首名卒伝に見える「和銅末」を根拠とする批判に対しての反論であり、従って続日本紀の「末」の悉皆調査により、当時の人々の認識を明確にし、「末」の字が具体的にどのようなことに対して使用しているのかを論じています。現代人の抽象論や一般的な可能性をテーマとはしていません。続日本紀内に『「末」は「先」ではなく「本の方に対して、先の方」という観念の文字』と理解しなければならない用例があるのでしたら、具体的にご指摘いただけないでしょうか。わたしが読んだ限りでは、そのような例は見当たりませんでしたので。〟

学問や研究は、Kさんのように真摯な対話や論争により、深化発展するものと、わたしは考えています。なお、Kさんのご意見にもあるように、〝「本」にも幅があるように「末」にも先の方と幅がある〟というケースについては本連載で後述します。(つづく)

(注)
①他の可能性もあるとする一般論を否定しないが、その場合、なぜ第一義を採用してはならず、他の可能性を採用しなければらないのかの説明責任が、そう主張する側に発生する。

船王後墓誌の「末」の字の場合も同様の論証責任が発生する。なぜなら、通説の理解で問題なく墓誌の文章を読めるからだ。「末」本来の字義ではなく、九州王朝の天子の没年の五年前でも「末」の期間に含まれると考えればよいという方に、なぜ、アスカ天皇の没年と理解されかねない、かつ文脈上不要な「末」の一字が書かれたのかという説明責任も発生している。
②辛丑年(641年)は九州年号の命長二年に当たり、九州王朝の天子の崩御があれば改元するはずだが、命長七年(646年)の翌年(647年)に常色元年に改元されている。
③古田先生の「シュリーマンの原則」については次の論考を参照されたい。
古田武彦「補章 二十余年の応答」『「邪馬台国」はなかった』ミネルヴァ書房、古代史コレクション1、2010年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/tyosaku4/outouho.html
古田武彦「天孫降臨の真実」
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kourinj/kourinj.html


第3354話 2024/09/27

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (4)

 『続日本紀』には、服部さんの発表資料に提示された、「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」の一つとして、道君首名卒伝の「和銅末」がありますが、今回の悉皆調査の結果、『続日本紀』には〝年号+「末」〟表記を持つ卒伝・薨伝が道君首名を含めて七例見つかりました。次の各伝です。

❶養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末」〈和銅8年(715)〉
❷天平神護二年(768)三月条 藤原朝臣真楯薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❸延暦二年(783)七月条 藤原朝臣魚名薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❹延暦四年(785)七月条 淡海眞人三船卒伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❺延暦四年(785)九月条 藤原種継薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
❻延暦七年(788)七月条 大中臣朝臣清麻呂薨伝
「天平末」〈天平20年(748)〉
❼延暦八年(789)九月条 藤原朝臣是公薨伝
「寳龜末」〈宝亀11年(780)〉
※〈〉内の年次はその年号の最終年です。

 卒伝・薨伝には上記に示した「○○末」の他、「○○中」「○○初」という年次表記例もあり(○○は年号)、『続日本紀』編纂者は「末」「中」「初」を使い分けていることがわかります。これら卒伝・薨伝の「○○末」について、前話で紹介した『続日本紀』の用例(ものごとの最後)と同様に、「○○末」が年号の最後の一年という意味で使用しているのかを確認するため、内容の調査を行いました。(つづく)


第3353話 2024/09/26

『続日本紀』道君首名卒伝の

         「和銅末」の考察 (3)

 「末」の字義(ものごとの最後)は同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立していると、わたしは考えていますが(例外については後述)、『続日本紀』の時代やその編纂者たちがどのような意味で「末」という字を使用していたのかを理解するために、『続日本紀』そのものを調査する必要があります。その方法として、古田史学の研究者であれば当然のこととして「末」の字の悉皆調査を行うはずです。古田先生が『三国志』中の「壹」と「臺」の字の悉皆調査をされたようにです。

 服部さんの発表資料には「『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)」とありましたが、わたしの調査では「末」の字そのものは112件ありました(注①)。見落としや、「末」と「未」の見誤り、写本間でも同様の差異があり、誤差があるかもしれませんが、本稿の論旨や結論に影響はないと思います。〝時を表す「末」〟も少なからずありましたので、順次紹介します。

 わたしは三十数年前にも、「従」の字の『続日本紀』悉皆調査を行った経験がありますが、同書は巻四十(文武天皇元年・697年~桓武天皇延暦十年・791年)まであり、難儀しました(岩波書店・新日本古典文学大系本全五巻を使用)。今回調べた「末」の字は、人名や宣命中の「マ」音表記に数多く使用されていました。それに比べるとはるかに少ないのですが、当時の人々の「末」の字義についての認識を示す記事もありました。次の三例を紹介します。
※読者が見つけやすいように、「末」の字に【】を付しています。

(1) 天平六年(734年)二月癸巳朔。
天皇御朱雀門覽歌垣。男女二百[四十*]餘人、五品已上有風流者皆交雜其中。正四位下長田王、從四位下栗栖王、門部王、從五位下野中王等爲頭。以本【末】唱和、爲難波曲、倭部曲、淺茅原曲、廣瀬曲、八裳刺曲之音。令都中士女縱觀、極歡而罷。賜奉歌垣男女等祿有差。
※[四十*]は「卅」の縦線が四本の字体。

これは朱雀門前で開催された歌垣の記事で、都の男女240名余りが参加した華やかな行事です。長田王ら4名が「頭」となり、参加した人々の「本末」が難波曲(なにわぶり)などを唱和したというものです。この「本末」とは本末転倒の「本末」のことで、歌垣参加者の初めから最後までの人々が唱和したという文脈ですから、「末」とは〝ものごとの最後〟という、「末」の字義通りの意味で使用されています。

(2) 天平十二年(740年)十月
己夘(26日)、勅大將軍大野朝臣東人等曰、朕縁有所意、今月之【末】、暫往關東。雖非其時、事不能已、將軍知之不須驚恠。
壬午(29日)、行幸伊勢國。以知太政官事兼式部卿正二位鈴鹿王、兵部卿兼中衛大將正四位下藤原朝臣豊成爲留守。是日、到山邊郡竹谿村堀越頓宮。
癸未(30日)、車駕到伊賀國名張郡。
十一月甲申朔(1日)、到伊賀郡安保頓宮宿。大雨、途泥人馬疲煩。
乙酉(2日)、到伊勢國壹志郡河口頓宮。謂之關宮也。
丙戌(3日)、遣少納言從五位下大井王、并中臣忌部等、奉幣帛於大神宮。車駕停御關宮十箇日。

 これは聖武天皇の伊勢行幸の発端とその様子が記された記事です。聖武天皇自らの命令(勅)に「今月之末、暫往關東」とあり、当時の朝廷内で、「今月之末」の「末」がどのような意味で使用されているのかを知る上で貴重な記事です。この時代の「関東」とは鈴鹿関・不破関以東を指し、この記事では目的地が伊勢国であることから、河口関より東という意味かもしれません。

 伊勢行幸の準備は10月19日から始めていますが、なぜか10月26日にこの勅を発し、都(平城京)を29日に出発、伊勢国河口頓宮に翌月の2日に到着しています。途中(11月1日)、伊賀郡安保頓宮に宿し、「大雨、途泥人馬疲煩」とあることから、大雨で旅程が遅れたのではないでしょうか。

 こうした文脈から判断すれば、天皇は今月末(10月30日)に伊勢国に行くと命じたものの、それを10月26日に命じられた将軍や官僚たちにとっては突然だったようで(注②)、準備も大変ですし、大雨にもたたられ、2日遅れの11月2日到着になったものと思われます。従って、天皇が言った「今月之末」とは字義通り10月30日のつもりだったと考えてよいでしょう。当初から11月2日到着が目的であれば、「今月之末」ではなく、「来月之初」と言ったはずですから。また、今月内の到着でよければ「今月中」と言うでしょう(実現困難と思いますが)。しかし、聖武天皇は「今月之末」と、わざわざ「末」を付けて命じているのですから、10月26日にそれを聞いた官僚たちは10月30日には着かなければならないと、大慌てしたのではないでしょうか。聖武天皇は人使いが荒い天皇だったようです。

(3) 神護景雲元年(767年)八月
癸巳。改元神護景雲。詔曰、(中略)復陰陽寮毛七月十五日尓西北角仁美異雲立天在。同月廿三日仁東南角仁有雲本朱【末】黄稍具五色止奏利。如是久奇異雲乃顯在流所由乎令勘尓。

 「神護景雲」改元の詔です。改元の理由がいくつか記されており、その一つとして、7月23日に「東南の角(すみ)に有る雲、本(もと)朱に末(すえ)黄に稍(やや)五色を具(そな)へつと奏(もう)せり」とあります。五色の雲の色として、最初(本)が朱色、最後(末)が黄色という意味ですから、ここでも〝ものごとの最後〟の意味で「末」という字が使用されています。

 このように、聖武天皇の発言時(740年)や『続日本紀』の成立時(797年)においても、「末」という字は現代と同様に〝ものごとの最後〟の意味で使用されていたことがわかります。わたしの読んだ限りでは、〝ものごとの途中〟〝終わりに近い途中〟のことを表すために、「末」という字は使用されていませんでした。

 次に、『続日本紀』に記された各「卒伝」中の〝年号+「末」〟の諸例を紹介します。(つづく)

(注)
①『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件あり、巻毎の検索件数は次のとおり。
[巻1]1、[巻2]0、[巻3]0、[巻4]0、[巻5]0、[巻6]0、[巻7]0、[巻8]1、[巻9]2、[巻10]0、[巻11]1、[巻12]1、[巻13]1、[巻14]0、[巻15]3、[巻16]0、[巻17]2、[巻18]0、[巻19]0、[巻20]0、[巻21]0、[巻22]0、[巻23]1、[巻24]0、[巻25]21、[巻26]17、[巻27]13、[巻28]6、[巻29]2、[巻30]1、[巻31]2、[巻32]0、[巻33]0、[巻34]6、[巻35]6、[巻36]7、[巻37]3、[巻38]7、[巻39]5、[巻40]3。
②この直前(天平十二年九月)に、九州で藤原広嗣の乱が勃発しており、配下の将軍(大野朝臣東人)たちは進軍の準備をしていた。


第3352話 2024/09/25

『続日本紀』道君首名卒伝の

       「和銅末」の考察 (2)

 わたしの文章理解や文字感覚からすると、他者に読んでもらうことを前提とする〝公的〟な文書では、なるべく誤解を招かないように正確な表現や文字を選びますし、他者が書いた公的な文書もそうした配慮がなされていると、まずは捉えます。その前提にあるのは、言葉や文字にはその社会内で、同じ意味、共通した理解が成立していると考えているからです。そうでなければ、自らの意思・認識を読者に正しく伝えることができません。

 なお、この場合、その意思や認識の当否は一応別問題です。誤った不正確な情報を真実であると信じてしまい、それを他者に正確に伝えようとする〝善意の誤り〟というケースもあるからです。文献史学やフィロロギーという学問領域では、こうしたことに考慮して、研究を進めなければなりません。

 それでは本論に入ります。例えば「末っ子」という言葉は、何人兄弟であっても最後の子供を意味し、それは五人兄弟であろうと十人兄弟であろうと同じです。兄弟姉妹が十人いても、八人目や九人目を「末っ子」とは言いません。それほど、「末」という字の字義が同一社会内での共通認識として〝頑固〟に成立しているからです。

 『続日本紀』の道君首名(みちのきみおびとな)卒伝(注①)に見える「和銅末」の場合はどうでしょうか。もちろんわたしは「和銅末」とあるのだから、『続日本紀』編者の年代認識と執筆意図は、「和銅年間の末年(和銅八年)のことと読んで欲しい」であると判断します。卒伝の当該部分は次のようです。

 「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 この文を読めば、和銅年間の末年(最後の一年。和銅八年・715年)と読者は理解するでしょうし、日本国の正史である『続日本紀』の編纂者はエリート文書官僚ですから、その「末」の字により、和銅年間の最後の一年のことと理解されてしまうことはわかっているはずです。むしろ、そのつもりで「和銅末」と書いたと考えるのが、文献史学における文章理解の基本です。もし、首名が筑後国守に任命された和銅六年(713年)のことと理解してほしければ、末年(最後の年)と読者から理解されてしまう「末」ではなく、たとえば「和銅年中」とか「和銅中」のような、幅を持つ適切な文字使いがありますから、文書官僚であればそちらを選ぶのではないでしょうか。

 ですから、都(平城京)で筑後国守に任命されたのが和銅六年であり、現地に赴任し、筑後国守となり肥後国守を兼ねたのが和銅年間の末の和銅八年のことであると、編者は認識しており、それを卒伝に記したのではないでしょうか。交通や情報手段が発達した現代社会とは大きく異なり、当時は家族や部下を引き連れて、そう簡単に都から筑後国に転居することはできないでしょうし、九州王朝から大和朝廷へ王朝交代(701年)して十数年後の九州では隼人の反乱が続いており(注②)、赴任するのに二年かかったとしても不思議ではありません。しかも、首名は和銅五年(712年)九月に遣新羅使に任命され、和銅六年(713年)八月十日に都に帰還、その十六日後に筑後国守に任命されています。

 従って卒伝の通り、筑後国守赴任が二年後の和銅八年(和銅末、715年)であれば、「和銅末」はむしろ正確な情報に基づいた表記だと思われます。この理解が妥当かどうかを確認するために、わたしは『続日本紀』に使用された「末」の字の全用例を調べてみました。調査漏れがあるかもしれませんが、『続日本紀』全四十巻中に「末」の字は112件ありました。(つづく)

(注)
①『続日本紀』の養老二年(719年)四月条の「道君首名卒伝」は次の通り。
夏四月乙丑朔。(中略)乙亥。筑後守正五位下道君首名卒。首名少治律令。曉習吏職。和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。勸人生業。爲制條。教耕營。頃畝樹菓菜。下及鶏■。皆有章程。曲盡事宜。既而時案行。如有不遵教者。隨加勘當。始者老少竊怨罵之。及收其實。莫不悦服。一兩年間。國中化之。又興築陂池。以廣漑潅。肥後味生池。及筑後往往陂池皆是也。由是。人蒙其利。于今温給。皆首名之力焉。故言吏事者。咸以爲稱首。及卒百姓祠之。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、二〇一二年。初出は『古田史学会報』七八号、二〇〇七年。


第3351話 2024/09/24

今も続く津軽石塔山神社参詣

 年頭から開始した『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業ですが、八幡書店側の事情で大幅に遅れています。原稿を執筆していただいた皆さんには申し訳なく思っています。そうしたおり、青森県の秋田孝季集史研究会の方からメールが届き、今でも津軽の人々により石塔山神社への参詣が続けられていることを知りました。

 和田喜八郎さんやご長男の孝さんが亡くなり、和田家が離散したため、石塔山神社を護る人もなく、社殿や鳥居は荒れ放題ではないかと思っていたのですが、今でも津軽の人々により参詣が行われていることに、頭が下がる思いです。冥界の秋田孝季や和田吉次も喜んでいることでしょう。わたしも、いかなる困難があっても、『東日流外三郡誌の逆襲』を刊行すると、誓いを新たにしました。


第3350話 2024/09/23

『続日本紀』道君首名卒伝の

       「和銅末」の考察 (1)

 古田先生が晩年に提唱された、七世紀の金石文に見える「天皇」は九州王朝天子の別称とする新説(古田新説)に対して、わたしは旧説(天子の配下のナンバーツーとしての「天皇」)の方が妥当として、古田先生とも〝論争的対話〟を続けていました(注)。

 その論点の一つとして、国宝の船王後墓誌(668年成立)にある「阿須迦天皇之末歳次辛丑年(641年)」がありました。阿須迦天皇を九州王朝の天子とする先生に対して、その年(歳次辛丑年)に没した舒明天皇とする通説は『日本書紀』と一致しており妥当だが、阿須迦天皇之末の歳次辛丑年(641年)あるいはその翌年に九州年号「命長」は改元されていないので(改元は6年後、647年の常色元年丁未)、九州王朝の天子ではないとしました(このことを最初に指摘したのは正木裕さん)。

 このようなわたしの見解に対して、服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)から次の批判がなされました。多元的古代研究会のリモート研究発表(「天皇称号について」2024年9月20日)での服部さんの資料から転載します。

【以下、転載】
④古田氏の『「阿須迦天皇の末」という表記から見ると、当天皇の治世年代は永かったと見られるが』部分の古賀氏の批判はその通りです。しかし、永くなければ「末」と言う表現は使わないのか。以下に『日本書紀』および『続日本紀』での時を表わす「末」の使用例(実は非常に少なくたった2例)を示す。

(1) 天智紀7年(668)10月、「大唐の大将軍英公が高麗を討ち滅ぼす。高麗の仲牟王が初めて建国した時に(中略)母に七百年の治あらんと言われた。今此国が亡ぶのはまさに七百年之末也。」
⇒『三国史記』・『三国遺事』ともに東明王の建国を漢の孝元帝健昭2年(紀元前37)とするので、実際には建国後705年に滅んだことになります。これを700年の末と記述しているのです。700年と少しの後と言う意で末を使っています。

(2) 養老2年(718)4月条、「筑後守正五位下道君首名(みちのきみおびとな)卒する。首名はおさなく律令を治め、吏職に明らかなり。和銅の末に出でて筑後守となり~」
⇒首名の筑後の守の任官は和銅6年(713)8月に対し、和銅年号は8年9月までです。8年足らずの間の内2年の期間でも末を使用しているのです。
つまり「末」と言う語は、末年1年限りについてのみ使用する語とは限りません。少なくとも古賀氏の言う「5年間も末年が続いたことになり、これこそ不自然」との批判は当らないのです。
【転載終わり】

 この批判、特に(2)の「道君首名卒伝」の「和銅の末」はとても興味深い指摘です。服部さんからの反論要請もあり、今回はこの「道君首名卒伝」について検討しました。(つづく)

(注)
古賀達也「洛中洛外日記」一七三七~一七四六話(2018/08/31~09/05)〝「船王後墓誌」の宮殿名(1)~(6)〟
「船王後墓誌」の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』一五二号、二〇一九年。
同「宮名を以て天皇号を称した王権」『多元』一七三号、二〇二二年。
同「『天皇』銘金石文の史料批判 ―船王後墓誌の証言―」『古田史学会報』一八二号、二〇二四年。


第3349話 2024/09/22

「中原高句麗碑」碑文にあった「高麗」

 一昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。次回、10月例会の会場も豊中自治会館です。お昼休みには「古田史学の会」役員会を開催し、来年1月19日(日)に京都市(キャンパスプラザ京都を予定)で新春古代史講演会を開催することなどを決定しました。

 8月例会で発表予定だった「多元的天皇号の成立」を、今回、わたしは発表しました(体調不良で8月例会を欠席)。発表者が多く、時間制限(40分)のため、船王後墓誌銘文の「天皇」を九州王朝の天子の別称とする古田新説が成立困難であることについて、テーマを絞って説明しました。このテーマについては引き続き「洛中洛外日記」でも解説する予定です。

 正木さんからは「中原高句麗碑」の紹介がありました。「高句麗好太王碑」は有名ですが、1987年に韓国忠州市から発見された「中原高句麗碑」は、高句麗長寿王(413~491年)の事績を刻むとされる石碑で貴重です。正面の碑文だけが遺っており、他の三面はほとんど文字は見えないとのことです。発見の翌年、ソウル出張したときに同碑発見のニュースを聞いた記憶がありますが、正木さんの発表で内容について初めて知りました。碑文には高句麗のことを「高麗」とあり、高句麗自身は自国の正式名称を「高麗」と呼んでいたことがわかり、とても興味深いものでした。

 9月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔9月度関西例会の内容〕
①倭国に滅ぼされた多婆那国(改定) (姫路市・野田利郎)
②大国主が落ちた穴と宇陀の血原の本当の意味 (大山崎町・大原重雄)
③韓半島の倭人の運命 (高槻市・池上正道)
④多元的天皇号の成立 (京都市・古賀達也)
⑤縄文語で解く記紀の神々 孝元・開化帝と日子坐 (大阪市・西井健一郎)
⑥「倭国」の動向と多利思北孤 (東大阪市・萩野秀公)
⑦欽明紀の分析 (茨木市・満田正賢)
⑧『中原高句麗碑』が明らかにした5世紀の高句麗の攻勢 (川西市・正木 裕)
◎役員会の報告(古賀)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/19(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
11/16(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター


第3348話 2024/09/18

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (5)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の藤原宮跡の遺構からは、大宝令より前の「官司」「官職」と理解しうる木簡が出土しています。九州王朝律令を復元するうえで貴重な史料です。わたしの知るところを「木簡庫」から転載します。

《藤原宮跡出土の七世紀官司官職名木簡》
○「舎人官」
【木簡番号】524
【本文】□□〔且ヵ〕□舎人官上毛野阿曽美□□〔荒ヵ〕□○右五→
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)舎人官は大宝・養老令官制の左右大舎人寮か東宮舎人監の前身官司と考えられる。舎人官の上にある文字は、大・左・右のいずれでもない。人名中にみえる阿曽美は朝臣の古い表記法と思われ、『続日本紀』宝亀四年五月辛巴条にみえる。

○「陶官」
【木簡番号】523
【本文】陶官召人
【遺跡名】藤原宮跡大極殿院北方
【遺構番号】SD1901A
【木簡説明】(前略)陶官が人を召喚した文書の冒頭部分にあたる。陶官は『令義解』にみえる養老令官制の宮内省管下の筥陶司の前身となるものであろう。大宝令施行期間中に筥陶司が存在したことは天平一七年(七四五)の筥陶司解(『大日本古文書』二-四〇八)の存在から確認できる。したがって、陶官という官名は飛鳥浄御原令制下にあったものと思われるが、さらにこの海(ママ)から出土した他の木簡の例からみて浄御原令施行以前にも存在していた可能性がある。官司名+召という書きだしをもつ召喚文は藤原宮木簡四九五、平城宮木簡五四・二〇九四などにもみえるが、この木簡の例などからみて、かなり古くから行われたものらしい。

○「宮守官」
【木簡番号】466
【本文】・○但鮭者速欲等云□□・以上博士御前白○宮守官
【遺跡名】藤原宮跡西南官衙地区
【遺構番号】SD502
【木簡説明】宮守官が博士に鮭を要求することについて報告した文書。宮守官は他の文献史料にない。官という呼称からみて、大宝令以前の官名か。ただ宮を守るという意味をあらわしていること、南面西門の近くで出土していることから、藤原宮の宮城門を守る官司である可能性が高い。この木簡からみると「宛先の前に申す」という文書形式では「前に申す」という語句が文書の末尾にくる場合があることを示している

○「薗職」
【木簡番号】1
【本文】九月廿六日薗職進大豆卅□〔石ヵ〕
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SK1903
【木簡説明】薗職から大豆を進上してきたことを記した文書。上部は小万で切断した面で、もとの面である。したがって文書としては冒頭から残っていると考えられる。まず、薗職が大豆を進めた年月日を書き、つづけて大豆の数量を書いている。おそらく、木簡の折損している下半分か裏面に、進上した薗職の責任者名があったのではなかろうか。ただし裏面は腐蝕がはなはだしく墨痕は確認できない。薗職は他の文献史料には名前がみえない。関連する官司名としては『令義解』にみえる養老令官制として園池司がある。大宝令制下では、同令施行期間中である天平十七年の正倉院文書(『大日古』二-三九九)に園池司解があるので、大宝令官制でも園池司は存在していたと思われる。この大宝・養老令官制にみられる園池司と薗職との関係については直接的な史料がないので確言はできないが、二つの場合が考えられる。すなわち、第一の場合は薗職は国池司の前身であって大宝令施行以前の浄御原令制下の官制であると考えるものであり、第二の場合は、令外官で園池司とは別に存在したものと考える場合である。このうち、以下に述べるような事情から、第一の場合の可能性が高いものと考えられる。すなわち、薗職と同じ類の官司名として、奈良県教育委員会の調査で出土した藤原宮木簡の中に「←薗官」「薗司」と書かれた木簡が出土していることを考えると、薗職、薗官、薗司という類似した官司名が三つあることになるが、これら三つの官司がそれぞれ別個に存在したと考えるより同一官可を三様に呼称したものと考えた方が自然である。そうであるとすれば大宝・養老令の官制では各官司はその呼称として省寮職司の格付が明確にされていたわけであるから、同一官司名を司とも官とも職ともよぶということはありえない。したがって、薗職、薗司、薗官は同一官司を示し、大宝令以前の官司であって、国池司の前身と見た方がよさそうである。もちろん、薗職、薗官、薗司の三つの官司が別個のものであって、このうちの薗司、薗職等が従来の文献で知られていない大宝令施行後の官名である可能性もある。

○「蔵職」「文職」
【木簡番号】1639
【本文】・〈〉○□□□〔麻呂ヵ〕○大□〔神ヵ〕□志○蔵職\○危□□田○□\○文職○□□\○□・○□□\○□○□□
【遺跡名】藤原宮跡東方官衙北地区
【遺構番号】SD2300
【木簡説明】(前略)「蔵職」「文職」は、ともに大宝令以前の官司であろう。

○「膳職」
【木簡番号】0
【本文】膳職白主菓餅申解解→
【遺跡名】藤原宮北辺地区
【遺構番号】SD105

○「塞職」
【木簡番号】12
【本文】・「/□/□/□∥」符処々塞職等受・○常僧師首○僧\○/常僧/○常∥薬薬首市市\○僧
【遺跡名】藤原宮跡北面中門地区
【遺構番号】SD145
【木簡説明】塞職にあてた符。裏面ならびに表面上部の文字は別筆の習書である。「塞」は『万葉集』にセキと訓んで関にあてた例があり、(『万葉集』二〇三、一〇七七)、『日本書紀』大化二年正月条では「関塞」の二字にセキの古訓があるから(北野本)、関所の司と考えてよかろう。奈良県教育委員会の調査で竜田、大坂の関の存在を示唆する木簡が出土しており、『出雲国風土記』にも国内に多くの剗(関)があったことがみえる。この木簡にみえる塞は大和とその周辺にあった関をさすものか。裏面の習書は表と全く関連がない。

○「外薬」
【木簡番号】1776
【本文】外薬□
【遺跡名】藤原宮跡西面南門地区
【遺構番号】SD1400
【木簡説明】「外薬」は、外薬寮のことか。外薬寮は、天武天皇四年(六七五)正月、大学寮学生、陰陽寮ほかとともに薬および珍異等物を捧げたとみえる令前官司で(『日本書紀』同月丙午朔条)、令制の典薬寮にあたるとみられる。

これらの木簡に見える「○○官」という官司名は九州王朝が制定したものと思われ、次の例が知られています。

○「尻官」 法隆寺釈迦三尊像台座墨書(7世紀初頭)
○「見乃官」 大野城市本堂遺跡出土須恵器刻書(7世紀前半~中頃)

 飛鳥宮の役所跡と見られている石神遺跡からも、次の「○○官」木簡が出土しています。出土層位は天武期頃と見られています。

《明日香村石神遺跡出土「○○官」木簡》
○「大学官」
【木簡番号】0
【本文】大学官○□
【遺構番号】SD4089

○「勢岐官」
【木簡番号】0
【本文】・□〔道ヵ〕勢岐官前□・代□
【遺構番号】SK4060

○「道官」
【木簡番号】0
【本文】・○道官□・〈〉
【遺構番号】SD4090

 『日本書紀』天武紀にも次の「○○官」名が見え、七世紀の官司名として出土木簡と対応しているようです。

○「法官」「大弁官」 天武七年(678年)十月条
○「宮内官」 天武十一年(682年)三月条
○「法官」 天武十二年(683年)十月条
○「大弁官」 天武朱鳥元年(686年)三月条
○「太政官」「法官」「理官」「兵政官」「刑官」「民官」 天武朱鳥元年(686年)九月条

 藤原宮出土木簡により、『日本書紀』天武紀の検証が実証的に進めることができ、また、王朝交代研究にとって重要な木簡群であることをご理解いただけたものと思います。古田学派で進められきた『日本書紀』の史料批判や解釈論争が、これからは同時代木簡により、エビデンスベースでの検証が可能となりました。当連載で紹介できたのは藤原宮(京)出土木簡のごく一部ですが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代研究に裨益することができれば幸いです。(おわり)


第3347話 2024/09/16

王朝交代期のエビデンス、

        藤原宮木簡 (4)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145から出土した木簡から、701年に起きた行政官庁・官司の名称変化と行政用語を示すものを紹介します。これらも藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代がなされた根拠となる木簡群です。

《藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土木簡》

【木簡番号】0
【本文】←○左大臣□□□

【木簡番号】0
【本文】□〔主〕典大初□〔位〕

【木簡番号】0
【本文】・←□御命受止食国々内憂白・←□止詔大□□〔御命ヵ〕乎諸聞食止詔

【木簡番号】0
【本文】・恐々謹々頓首→・受賜味物→

【木簡番号】8
【本文】・卿等前恐々謹解寵命□・卿尓受給請欲止申
【木簡説明】卿等への上申文書。助調の一部を万葉仮名で、補なう形をとった解。仮名を小字に書かない例は宣命木簡(奈教委『概報』)にもみられる。卿は養老令では八省の長官をいう。ここでは単なる尊称か。(後略)

【木簡番号】11
【本文】・恐々受賜申大夫前筆・暦作一日二赤万呂□
【木簡説明】筆の請求に関する文書。「暦作」云々の文言からすると暦の勘造、頒布に要する筆か。大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨、頒暦に当っている(『令集解』職員令陰陽寮条古記)。(後略)

【木簡番号】13
【本文】・内掃部司解□→・倭国○葛下郡→
【国郡郷里】大和国葛下郡
【木簡説明】内掃部司は宮内省の被管で供御の畳、席、薦等の事を分掌する官司。伴部として掃部をもつ。令制では掃部は大蔵省掃部司と宮内省内掃部司にある。掃部の伴造の系譜をひく掃部連の出身者が内掃部司の令史に任じられている例が、天平一七年四月付の正倉院文書にある(『大日古』二-四〇八頁)。この木簡の文意は不明であるが、葛下郡との関係は、同郡内に掃部氏の氏寺で義淵の建立と伝える掃守寺跡があることが注意される。

【木簡番号】17
【本文】中務省/管内蔵三人∥
【木簡説明】「管」は官司を管理するの意で、養老職員令にも「中務省/管職一寮六司三∥」などとある(『令集解』)。ただこの場合の「内蔵三人」は内蔵寮の官人のことか。大宝・養老令制では内蔵寮は中務省に所属している。

【木簡番号】18
【本文】中務省使部
【木簡説明】養老令制では中務省には使部七〇人が配属されている(『令集解』)。(後略)

【木簡番号】30
【本文】・大初位下上県白→・○□
【木簡説明】上縣という氏は他の文献史料にない。あるいは上が民(ママ、氏ヵ)で縣は名か。(後略)

【木簡番号】72
【本文】・□〔而ヵ〕薬司□〔侍ヵ〕/□□□□/○□∥・□□部□/○/□∥
【木簡説明】薬に関する官司は大宝令制では後宮十二司の薬司、典薬寮、内薬司などがある。この木簡の示す薬司は後宮十二司のそれをそのまま示すものか、あるいは典薬寮の大宝以前の前身である外薬寮(『日本書紀』天武四年正月朔条)や内薬司の前身である内薬官(『続日本紀』文武三年正月癸未条)の別称であるのかはつまびらかにしない。

遺構SD145から出土した上記木簡で注目されるのが、木簡17・18にある「中務省」(注①)という大宝令で創設された官庁名です。木簡13の「内掃部司」も中務省管轄の官司であり、木簡11の「暦作」を担当した部署も「大宝令制では中務省の陰陽寮が造磨(ママ、暦)、頒暦に当っている(注②)」とあることから、SD145の近辺に中務省があったのではないでしょうか。藤原宮(京)が律令制の王都王宮として機能していたことは、木簡0・30に見える律令制官位「大初□」「大初位下」からもうかがえます。(つづく)

(注)
①中務省(なかつかさしょう)は、律令制における八省のひとつで、天皇の補佐や詔勅の宣下、叙位など朝廷に関する職務全般を担ったことから、八省の中でも最重要の省とされた。
②『養老律令』巻十 雑令に次の条文がある。
「凡よそ陰陽寮は、年毎に預(あらかじ)め来年の暦造れ。十一月一日に、中務に申し送れ。中務奏聞せよ。内外の諸司に、各(おのおの)一本給へ。並に年の前に所在に至らしめよ。」(日本思想大系『律令』岩波書店)による。


第3346話 2024/09/15

王朝交代期のエビデンス、藤原宮木簡 (3)

 701年での九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代期を跨ぐ時代の遺構として、藤原宮跡北面中門地区の外濠SD145があります。同遺構から出土した約500点の木簡から、王朝交代前後での変化を示す木簡を「木簡庫」より抽出して紹介します。

 最初に紹介するのは、古代史研究での郡評論争として著名な、701年に起きた「評」から「郡」への行政単位名の変化を示すSD145出土木簡です。すなわち、藤原宮の時代(694~710年)に王朝交代(評制から郡制へ)がなされた根拠となる木簡群です。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「評」木簡◆

【木簡番号】0
【本文】己亥年十月上捄国阿波評松里
【国郡郷里】安房国安房郡〈上捄国阿波評松里〉
【和暦】(己亥年)文武3年 【西暦】699年

【木簡番号】0
【本文】上毛野国車評桃井里大贄鮎
【国郡郷里】上野国群馬郡桃井郷〈上毛野国車評桃井里〉

【木簡番号】0
【本文】下毛野国芳宜評□
【国郡郷里】下野国芳賀郡〈下毛野国芳宜評〉

【木簡番号】0
【本文】・←河評柏原里・□三烈一□〔節ヵ〕
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉

【木簡番号】0
【本文】三川国波豆評□〔篠ヵ〕嶋里大□〔贄ヵ〕一斗五升
【国郡郷里】参河国幡豆郡〈三川国波豆評篠嶋里〉

【木簡番号】0
【本文】山田評之太々里○□□□□〔邑内塩入ヵ〕
【国郡郷里】尾張国山田郡志談郷〈尾張国山田評太々里〉

【木簡番号】0
【本文】尾張国〈〉評〈〉
【国郡郷里】尾張国

【木簡番号】0
【本文】・飯□〔穂ヵ〕評若倭部柏・五戸乎加ツ
【国郡郷里】播磨国揖保郡〈播磨国飯穂評〉

【木簡番号】0
【本文】与射評大贄→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〉

【木簡番号】0
【本文】□□〔神門ヵ〕評阿尼里知奴大贄
【国郡郷里】出雲国神門郡〈神門評阿尼里〉

【木簡番号】0
【本文】海評/海里/○〓廿斤∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉

【木簡番号】0
【本文】海評三家里/日下部日佐良□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉

【木簡番号】0
【本文】次評/上部里/→∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡〈隠岐国次評上部里〉

【木簡番号】0
【本文】・吉備中国下道評二万部里・多比大贄
【国郡郷里】備中国下道郡迩磨郷〈吉備中国下道評二万部里〉

【木簡番号】0
【本文】←国後木評
【国郡郷里】備中国後月郡〈←国後木評〉

【木簡番号】0
【本文】加夜評□□〔守里ヵ〕□部
【国郡郷里】備中国賀夜郡〈備中国加夜評守里〉

【木簡番号】0
【本文】熊毛評大贄伊委之煮
【国郡郷里】周防国熊毛郡〈熊毛評〉・(大隅国熊毛郷〈熊毛評〉)

【木簡番号】82
【本文】吉備道中国浅口評神部
【国郡郷里】備中国浅口郡〈吉備道中国浅口評神部〉
【木簡説明】浅口評は浅口郡か。『倭名鈔』では浅口郡は備中国にある。ただし神戸郷は同郡にはない。形態が不明で文書か荷札か判断しがたい。

【木簡番号】145
【本文】三方評竹田部里人○/粟田戸世万呂/塩二斗∥
【国郡郷里】若狭国三方郡竹田郷〈若狭国三方評竹田部里〉
【木簡説明】三方評竹田部里は『倭名鈔』には該当する郷名はない。ただし、平城宮出土木簡には竹田部里にあたる竹田郷丸部里(『平城宮木簡一』三三二)、竹田里(『平城宮木簡二』二六六五)がある。

【木簡番号】146
【本文】庚子年四月/若佐国小丹生評/木ツ里秦人申二斗∥
【国郡郷里】若狭国大飯郡木津郷〈若佐国小丹生評木ツ里〉
【和暦】(庚子年)文武4年 【西暦】700年
【木簡説明】庚子の年は文武四年(七〇〇年)。小丹生評木ツ里は『倭名鈔』では大飯郡木津郷にあたる。大飯郡は天長二年に遠敷郡より分置された(『日本書紀』天長二年七月辛亥条)。津をツと表記するのは国語史上注目される。用例としては大宝二年美濃国戸籍や藤原宮出土の墨書土器「宇尼女ツ伎」(奈教委『藤原宮』)にもみえる。

【木簡番号】150
【本文】←治国春部評春→
【国郡郷里】尾張国春部郡〈←治国春部評春→〉
【木簡説明】春部評は尾張国春部郡と思われるが、『倭名鈔』では同郡に「春□郷」はみえない。

【木簡番号】157
【本文】出雲評支豆支里大贄煮魚/須々支/→∥
【国郡郷里】出雲国出雲郡杵筑郷〈出雲評支豆支里〉
【木簡説明】出雲評支豆支里は『倭名鈔』の出雲郡杵筑郷にあたる。『風土記』にも出雲郡杵築(寸付)郷や支豆支社の名がみえる。『延喜式』では出雲国は贄の貫(ママ、貢ヵ)進国にはいっていない。

【木簡番号】159
【本文】・○伊余国久米評□・「天山里人○宮末呂」
【国郡郷里】伊与国久米郡天山郷/伊予国久米郡天山郷〈伊余国久米評天山里〉
【木簡説明】久米評天山里は、『倭名鈔』には久米郡天山郷とみえる。裏は別筆、表にも里名記載の墨痕がある。

【木簡番号】163
【本文】海評/中□〔田ヵ〕里/支止軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評中田里〉・尾張国海部郡〈尾張国海評中田里〉・紀伊国海部郡〈紀伊国海評中田里〉・豊後国海部郡〈豊後国海評中田里〉

【木簡番号】164
【本文】海評/海里人/小宮軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡海部郷〈隠岐国海評海里〉・尾張国海部郡海部郷〈尾張国海評海里〉
【木簡説明】海評海里は『倭名鈔』では隠岐国海郡と尾張国にある。同評同里の木簡は、奈良県教育委員会調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にみえる。軍布の訓はメ、海藻をいう。

【木簡番号】165
【本文】宇和評小物代贄
【国郡郷里】伊与国宇和郡/伊予国宇和郡〈宇和評〉
【木簡説明】宇和評は伊予国宇和郡。

【木簡番号】168
【本文】大荒城評胡麻□
【国郡郷里】上野国邑楽郡〈上野国大荒城評〉
【木簡説明】大荒城評は上野国邑楽郡かあるいは飛騨国荒城郡か。胡麻は『延喜典薬式』では上野国年料雑薬にみえる。

【木簡番号】170
【本文】神前評□山里
【国郡郷里】播磨国神埼郡蔭山郷〈播磨国神前評□山里〉・近江国神埼郡〈近江国神前評□山里〉・肥前国神埼郡〈肥前国神前評□山里〉
【木簡説明】神前評は神前郡で、近江国・播磨国・肥前国にみえる。

【木簡番号】171
【本文】海評三家里人/日下部赤□/軍布∥
【国郡郷里】隠岐国海部郡〈隠岐国海評三家里〉・尾張国海部郡三宅郷〈尾張国海評三家里〉
【木簡説明】海評三家里は『倭名鈔』では尾張国にある。

【木簡番号】172
【本文】次評/新野里/○軍布∥
【国郡郷里】隠岐国周吉郡新野郷〈隠岐国次評新野里〉
【木簡説明】次評新野里は『倭名鈔』の隠岐国周吉郡新野郷にあたる。

【木簡番号】176
【本文】・上毛野国車評・○□□□
【国郡郷里】上野国群馬郡〈上毛野国車評〉
【木簡説明】上毛野国車評は上野国群馬郡にあたる。車評は奈教委調査の藤原宮出土木簡(奈教委『藤原宮』)にもある。

【木簡番号】179
【本文】与射評大贄伊和→
【国郡郷里】丹後国与謝郡〈丹波国与謝郡〈与射評〉〉
【木簡説明】与射評は丹波国(後、丹後国)与謝郡。「伊和→」は伊和志か。『延喜式』では丹後国は交易雑物として小鰯腊一二籠を出すことになっている。

【木簡番号】186
【本文】・大伯評□〈〉三斗・〈〉
【国郡郷里】備前国邑久郡〈大伯評〉
【木簡説明】大伯評はのちの備前田邑久郡にあたる。

【木簡番号】192
【本文】熊野評大贄塩塗近代百廿隻
【国郡郷里】丹後国熊野郡〈熊野評〉

【木簡番号】194
【本文】・□〔志ヵ〕加麻評□・柏
【国郡郷里】播磨国飾磨郡〈播磨国志加麻評〉
【木簡説明】志加麻評は『倭名鈔』では播磨国餝磨郡にあたる。柏は『延喜民部式』では年料別貢雑物として播磨国が貢進することになっている。

【木簡番号】211
【本文】←□〔河ヵ〕評柏原里玉作部下□
【国郡郷里】駿河国駿河郡柏原郷〈駿河国駿河評柏原里〉
【木簡説明】柏原里は、『和名鈔』の駿河国駿河郡柏原郷にあたる。同里の荷札は、奈教委『藤原宮』(一〇一頁)にもみえる。

◆藤原宮跡北面中門地区 遺構SD145 出土「郡」木簡》◆

【木簡番号】0
【本文】知夫利郡由良里軍□〔布〕→
【国郡郷里】隠岐国知夫郡由良郷〈隠岐国知夫利郡由良里〉

【木簡番号】151
【本文】・尾治国知多郡→・大寶二年
【国郡郷里】尾治国知多郡
【和暦】大宝2年 【西暦】702年

【木簡番号】154
【本文】綾郡→
【国郡郷里】讃岐国阿野郡
【木簡説明】讃岐国綾郡の貢進荷札の断簡。平城宮第二次内裏西外郭より出土した和銅頃と推定される木簡とよく似た書風である(『年報一九七五』)。

【木簡番号】156
【本文】出雲国嶋根郡副良里伊加大贄廿斤
【国郡郷里】出雲国嶋根郡副良里
【木簡説明】嶋根郡副良里は『倭名鈔』に該当する郷名が見えないが、同郡内には現在の地名に福浦が残されている。烏賊は『延喜式』では出雲国の調の品目のなかに、烏賊廿斤としてみえる。『養老賦役令』調絹絁条では烏賊卅斤を正丁一人が貢納することになっている。

【木簡番号】169
【本文】□〔神ヵ〕郡前里鮎十八斤

【木簡番号】178
【本文】・安芸国佐伯郡雑腊二斗・【「〈〉□□□」】
【国郡郷里】安芸国佐伯郡
【木簡説明】裏面は倒書で別筆の楽書である。

【木簡番号】177
【本文】伊豆国仲郡
【国郡郷里】伊豆国那賀郡
【木簡説明】仲郡は、『倭名鈔』の那賀郡にあたる。

以上のように、各地からの荷札木簡に記された「評」「郡」木簡の同一遺構SD145からの出土という事実は、この藤原宮が王朝交代の舞台であったことを示しています。なぜならその当時、律令制(中央官僚約八千人)による全国統治が可能な規模を持つ大都市(条坊都市)と宮殿・官衙遺跡は日本列島内でここだけだからです(注)。(つづく)

(注)九州王朝の複都難波宮(京)は686年に焼失している。大宰府政庁Ⅱ期は規模が小さく、全国統治が可能な宮殿・官衙遺構とはできない。