2024年10月一覧

第3359話 2024/10/02

『東京古田会ニュース』218号の紹介

 『東京古田会ニュース』218号が届きました。拙稿「和田家文書「金光上人史料」の真実」を掲載していただきました。同稿では、和田家文書のなかでも金光上人史料は、『東日流外三郡誌』よりも早く、昭和24年頃には外部に提出され、書籍としても発刊された貴重な史料群であることを説明しました。

 同号には國枝浩さんの「唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本国伝の資料批判〉について」、橘高修さん(同会副会長)の「古代史エッセー81 倭国と日本国の関係」が掲載され、日本列島内の王朝交代についての中国側の認識について論じられました。なかでも橘高稿では、『旧唐書』『新唐書』の倭国伝と日本国伝の丁寧な説明がなされており、良い勉強の機会となりました。

 安彦克己さん(同会々長)の「和田家文書備忘録8 金寶壽鍛造の刀」は、和田家文書に記された刀について紹介されたもので、懐かしく思いました。というのも、和田家文書(『北鑑』39巻)に記された名刀「天国(あまくに)」「天坐(あまくら)」なるものを藤本光幸邸で実見し、和田喜八郎氏の依頼で調査したことがあったからです。このときの調査については『古田史学会報』(注)で報告しましたが、全貌については未発表です。機会があれば、わたしの記憶が確かな内に発表できればと思います。

(注)古賀達也「天国在銘刀と和田末吉」『古田史学会報』18号、1997年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga18.html


第3358話 2024/10/01

『続日本紀』道君首名卒伝の

      「和銅末」の考察 (6)

藤原朝臣真楯卒薨伝の「天平末」「出爲」

 『続日本紀』天平神護二年(768)三月条には、「天平末」という表記を持つ藤原朝臣真楯卒薨伝(注)が記されています。当該部分は次の通りです。

 「天平末、出為大和守。」

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)です。ここでも道君首名卒伝と同様に「○○末、出爲○○守」の構文が使用されており、首名卒伝と同様の読み方であれば、「天平年間(729~748年)の末年(天平20年)に、大和国守に赴任した」という意味になります。もっとも、首名とは大きく異なり、赴任先は平城京がある大和国ですから、恵まれた任官と言えそうです。ところが、当薨伝以外に藤原真楯の大和守任官・赴任記事は見えませんから、「天平末」の「末」の意味をこの記事からは直接的に導き出すことができません。

 そこで、よい機会ですので、今回は「天平末」に続く「出爲」について説明します。まず、道君首名の筑後守任官と卒伝の赴任記事の原文と訳文は次の通りです。

(a) 和銅六年(713年)八月条 筑後守任官記事
「従五位下、道君首名爲筑後守。」
従五位下、道君首名を筑後守とす。

(b) 養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」
和銅の末に出(い)でて筑後守となり、肥後國を兼ねて治めき。

 このように、(a)では動詞は「爲」だけですから、「○○になす」「○○とする」の意味で使用されています。他方、(b)では動詞が「出」「爲」と二つ続けてありますから、「出でて○○となる」という構文になっており、単に都で任命されたということではなく、「都から出て、○○になる」という意味であり、卒伝の「出爲」は赴任記事と理解するほかありません。そして、「筑後守」「肥後国」と続きますから、筑後・肥後に赴任したと読者は読むことになります。その直後に、任地での活躍記事が続きますから、文章の流れとしても自然です。

 この「出爲」の構文は『続日本紀』には少なく、道君首名卒伝・藤原朝臣真楯卒薨伝に続いて、ようやく次の用例を見つけました。天平宝字四年(760年)九月条の、新羅国からの遣使、金貞巻の言葉に見えます。

 「貞卷曰。田守來日、貞卷出爲外官。亦復賎人不知細旨。」
貞卷曰はく、「田守來れる日、貞卷出(い)でて外官と爲(あ)り。亦復(また)賎(いや)しき人にして細旨を知らず。」といふ。

 新日本古典文学大系本(岩波書店)の脚注には、この記事を次のように説明しています。

 「田守が新羅に来た時に、貞巻は地方官として都にはおらず、また身分が低いので、細かな事情は存じません、の意。」

 このように「出爲」という用語・構文は〝ある所へ出て、○○になる〟という意味で使用されていることがわかります。従って、道君首名卒伝の「和銅末」「出爲」を、和銅八年(715年)の筑後・肥後赴任の年とするわたしの理解は正しかったようです。(つづく)

(注)藤原朝臣真楯薨伝の原文は次の通り。【】は古賀が付した。
《天平神護二年(768)三月 藤原朝臣真楯薨伝》
丁卯。大納言正三位藤原朝臣真楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。真楯、度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝、寵遇特渥。詔、特令参奏宣吐納。明敏有誉於時。従兄仲満、心害其能。真楯知之。称病家居。頗翫書籍。【天平末、出為大和守。】勝宝初、授従四位上。拝参議。累遷信部卿兼大宰帥。于時。渤海使楊承慶、朝礼云畢。欲帰本蕃。真楯設宴餞焉。承慶甚称歎之。宝字四年授従三位。更賜名真楯。本名八束。八年、至正三位勲二等兼授刀大将。神護二年、拝大納言兼式部卿。薨時、年五十二。賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂。右少弁従五位上大伴宿禰伯麻呂弔之。