2024年11月一覧

第3384話 2024/11/28

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (3)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を「太寶元年」木簡と「大宝二年籍」西海道戸籍に基づいて考察しましたが、今回は筑紫大宰府が大和朝廷の支配下に置かれたことを端的に示す「和銅」ヘラ書き須恵器甕片を紹介します。
『延喜式』「主計寮上」によれば、筑前国の「調」(注①)として「大甕九口」「小甕百九十五口」が記されています。そのことを示すヘラ書き甕片が牛頸(うしくび)須恵器窯跡群や大宰府条坊跡から出土しています。それには次の文字がヘラ書きされています。

❶「*甕和銅八年」
❷「仲郡手」
❸「筑紫前国奈珂郡
手東里大神マ得身

幷三人
調大*甕一隻和銅六年」
❹「年調大*甕一」
❺「大神君百江
大神部麻呂
内椋人万呂
幷三人奉
*甕一隻和銅六年」
※*甕は瓦偏に長。

❶は大宰府条坊跡の羅城門近くから出土。❷~❺は牛頸須恵器窯跡群出土。

 これらの銘文から、和銅六年(713)頃には筑前国が日本国(大和朝廷)の収税の対象に入っていたことがわかります。しかし、それ以前の年号(大寶・慶雲)が記された甕片などが見えないことから、大宝元年(701)に日本国(大和朝廷)の影響下(大宝律令に基づく統治領域)に入った筑前国は和銅年間(708~715)に至り、本格的な収税の対象国に組み込まれたと考えることができそうです。

 この点、注目されるのが『続日本紀』養老二年(719)四月条の「道君首名(みちのきみおびとな)卒伝」です。「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、首名が筑後国の国司に就任(肥後国兼任)した次の記事が見えます。

「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 和銅年間の末年は和銅八年(715年)ですから、先の大宰府条坊跡から出土した「和銅八年」ヘラ書き甕片との一致は偶然ではなく、大宝元年から和銅八年にかけて、筑前国を完全に自らの律令体制に組み込んだ大和朝廷が、次に筑後国(肥後国兼任)にも国司を派遣したという王朝交代直後の歴史経緯の痕跡ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①租庸調の一つで、都へ上納した地域の産物(布・糸・絹・特産物など)が「調」と呼ばれている。
②古賀達也「洛中洛外日記」3350~3362話(2024/09/23~10/05)〝『続日本紀』道君首名卒伝の「和銅末」の考察 (1)~(7)〟


第3383話 2024/11/26

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (2)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を考える上で、「太寶元年」木簡以上に優れた同時代エビデンスがあります。それは大宝二年籍と呼ばれる702年に造籍された西海道戸籍です。奈良の正倉院などに保存されていたもので、筑前国嶋郡川部里をはじめ豊前国上三毛郡塔里戸籍・仲津郡丁里戸籍などの断簡が現存しています。

 同戸籍には「大寶二年」と記されており、八世紀初頭の同時代史料であることを疑えません。造籍作業は恐らくは前年から開始されたものと思われ、そうであれば大宝元年には少なくとも筑前国や豊前国など北部九州諸国は王朝交代直後から大和朝廷の命令により造籍を開始したことになります。このことは、造籍に携わる各地の「郡」の役人は九州王朝の「評」制時代からの役人と考えざるを得ないことから、王朝交代は筑紫に於いて整然と官僚組織の秩序を維持してなされたことを意味します。

 ちなみに、太宰府市国分松本遺跡からは七世紀第4四半期頃の戸籍木簡が出土しており(注①)、九州の役人たちは造籍作業に手慣れていたものと思われます。それは次の二つの木簡です。

【木簡番号】0
【本文】・/嶋評/○/「嶋□□〔戸ヵ〕」/○/「□□□」∥○/§戸主建部身麻呂戸又附去建□〔部ヵ〕→/政丁次得□□〔万呂ヵ〕兵士次伊支麻呂政丁次→/占部恵〈〉川部里占部赤足戸有□□→/小子之母占部真□〔廣ヵ〕女老女之子得→/穴凡部加奈代戸有附□□□□□□〔建部万呂戸ヵ〕占部→/□□∥・并十一人同里人進大貮建部成戸有○§戸主□〔建ヵ〕→\同里人建部咋戸有戸主妹夜乎女同戸□〔有ヵ〕□→\麻呂損戸○又依去同部得麻女丁女同里□〔人ヵ〕□→\白髪部伊止布損戸○二戸別本戸主建部小麻呂□→
【文字説明】表面、二列目三行目「戸有□」の「□」は「金偏」の文字。
【遺跡名】国分松本遺跡
【所在地】福岡県太宰府市国分三丁目
【遺構番号】SX001上層
【国郡郷里】文書
【国郡郷里】筑前国志麻郡〈嶋評〉・筑前国志麻郡川辺郷〈川部里〉
【人名】建部身麻呂・得(万呂)・伊支麻呂・占部恵・占部赤足・占部真(廣)女・得→・穴凡部加奈代・(建部万呂)・建部成・建部咋・夜乎女・得麻女・丁女・白髪部伊止布・建部小麻呂

【木簡番号】0
【本文】竺志前国嶋評/私□板十六枚目録板三枚父母/方板五枚并廿四枚∥
【形状】帳簿木簡をまとめて管理する際にインデックス的な機能を持つ付札として使用されたとみられる。
【遺跡名】国分松本遺跡
【所在地】福岡県太宰府市国分三丁目
【遺構番号】SX001上層
【国郡郷里】付札
【国郡郷里】筑前国志麻郡〈竺志前国嶋評〉

「嶋評」「竺志前国嶋評」「進大貮」などの記述から、七世紀末頃の木簡と見られています(注②)。(つづく)

(注)
①2012年に太宰府市から出土した最古(7世紀末)の嶋評戸籍木簡は、九州王朝の中枢領域である当地域が造籍事業でも国内の先進地域であったことをうかがわせる。正倉院文書の大宝二年「筑前国川辺里戸籍断簡」などの西海道戸籍の統一された様式からも、九州の造籍事業の先進性が従来から指摘されていたが、この最古の戸籍木簡の出土がそれを裏付けることとなった。
②古賀達也「太宰府「戸籍」木簡の考察 ―付・飛鳥出土木簡の考察―」『古田史学会報』112号、2012年。


第3382話 2024/11/25

王朝交代直後(八世紀第1四半期)

           の筑紫 (1)

 「洛中洛外日記」3380話(2024/11/20)〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟などで、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の倭国(九州王朝)と近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)の実勢力範囲(統治領域)を飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国名を根拠に論じました。今回は王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を確かなエビデンスに基づき、考察を試みたいと思います。

 最初のエビデンスは「大宝」年号木簡です。福岡市西区の元岡・桑原遺跡から次の「太寶元年」木簡が出土しています。奈良文化財研究所の「木簡庫」より、要約転載します。ここで留意していただきたいのが、通常は「大寶」とされていますが、出土木簡のほとんどは「太寶」と、「太」の字が採用されています。その理由は知りませんが、興味深いことです。「太宰府」と「大宰府」のように、現存地名などは太宰府ですが、『日本書紀』などでは大宰府と記されており、「太」と「大」には何か歴史的背景がありそうです。

【木簡番号】8
【本文】・太寶元年辛丑十二月廿二日\白□□□〔米二石ヵ〕〈〉鮑廿四連代税\○官川内□〔歳ヵ〕六黒毛馬胸白・○「六人部川内」
【出典】木研33-162頁-(5)(『元岡・桑原遺跡群14』-8・木簡黎明-(165)・木研23-158頁-(5))
【文字説明】裏面「部(マ)」は「ア」の字形。
【遺跡名】元岡・桑原遺跡群
【所在地】福岡県福岡市西区大字桑原字戸山
【遺構番号】SX002
【内容分類】荷札・文書?
【人名】六人部川内
【和暦】(辛丑年)大宝1年12月22日
【西暦】701年12月22日

 この木簡が指し示すように、王朝交代したその年(701年)の暮れには、九州王朝(倭国)の中枢領域で大和朝廷(日本国)最初の年号「太寶」が使用されていることは注目されます。この事実は、少なくとも筑前国ではスムーズに権力移行がなされたことを示唆します(注①)。

 なお、服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」(注②)によれば、次のように読まれています。

〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)

 □は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されています。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。


第3381話 2024/11/23

大阪考古学の惨状を憂う

 大阪では、難波の宮跡を筆頭に重要な考古学調査が戦後すぐから行われてきました。中でも山根徳太郎氏の難波宮発見の偉業は著名で、「洛中洛外日記」でも紹介してきたところです(注)。わたしたち「古田史学の会」は、大阪の代表的な考古学者をお招きして講演していただいてきました。そのお一人に、高橋工氏がいます。氏が所属する大阪市文化財協会は大阪府と大阪市の二重行政解消の方針により解散することが決まっています。当然、その事業や技術、学問上の資産は大阪府・大阪市に引き継がれるものと思っていたのですが、そうではないことを報道で知りました。

 産経新聞WEB版(2024.11.22)によれば、市文協が持つ独自の遺物の保存技術の継承先もなく、十数万冊に及ぶ蔵書は国内に引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっているとのこと。この報道に接し、わたしは愕然としました。なぜ大阪の政治家や行政は日本の伝統文化や技術、学問を守ろうしないのかと。こうした大阪考古学の惨状を、冥界の山根徳太郎氏は憂いておられるのではないでしょうか。

(注)古賀達也「洛中洛外日記」3302~3307話(2024/06/12~22)〝難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (1)~(5)〟

【産経新聞 WEB版】2024.11.22 から転載

どうなる大阪の遺跡発掘・保存
二重行政解消で解散の市文化財協会、黒字経営でも容赦なし

 大都市である大阪の地中には、いまだ解明されず謎に包まれた遺跡が数多く眠っている。7~8世紀に都が置かれ、「日本」という国号や元号の使用が始まったとされる国指定史跡「難波宮跡」など、歴史的に重要な遺跡も多い。これらの遺跡を発掘・調査してきた大阪市の外郭団体「市文化財協会(市文協)」が今年度末で解散する。地域政党「大阪維新の会」が進めてきた大阪府市の二重行政の解消による余波だ。市文協が得意とする遺物の保存処理技術も継承されなくなる恐れがあり、今後の文化財保護行政の課題になりそうだ。

 市文協は大阪市内の文化財の調査研究と保存、文化・教育の向上発展を目的に昭和54年に設立され、大坂城跡や難波宮跡など各遺跡の発掘や発掘成果の普及啓発業務を担ってきた。

 市文協の解散は平成25年、当時の橋下徹市長らが進めた二重行政の解消を目的とする府市統合本部会議で方針が決まった。市文協と、府内の文化財の調査や研究を担う府文化財センター(府センター)が「類似・重複している行政サービス」とされたためだ。事業整理に時間を要したが、今年6月に正式に解散が決定した。

 来年度以降は、調査期間が1週間未満の案件は市教委が、それ以外は府センターが発掘調査を担う。これまでの発掘資料や遺物などは市教委が引き継ぎ、市民向けの展示会や情報発信、現地説明会などについても市教委が判断する。

再開発でまだ見ぬ遺跡発見も

 市文協を管轄する市経済戦略局は解散理由について「外郭団体の整理の一環」と説明するが、市文協の担当者は「府市で重複している事業はなかった」と反論している。市文協によると、これまで府内の発掘調査や研究、遺物の展示などは、大阪市とその他の自治体ですみ分けられていたという。

 また、全国的には都市開発が落ち着き、遺跡の発掘調査は昭和~平成に比べると減少傾向にあるが、大阪市内では大規模な再開発や地中を深く掘り返すような建設が数多く進行、計画されており、歴史的価値を帯びた、まだ見ぬ遺跡が発見される可能性が高いという。

 市文協の担当者は「大坂城周辺や難波宮周辺、上町台地など、縄文から中世にかけての日本の歴史をたどる上で重要な遺物がたくさんあることが推測される」と話す。

エルミタージュから視察

 一方、市文協は独自の遺物の保存技術も有する。トレハロース(糖質)を使用した木造遺物の保存処理技術を開発。木製品を保存するためにトレハロースを染み込ませて固める手法は、温度やトレハロースの濃度など細かな管理が求められる高度な技術という。ロシアのエルミタージュ美術館をはじめとする海外の研究機関から視察に訪れるほどだ。市文協は他の自治体から遺物の保存処理を受託しており、年間2千万~3千万円の収入を得ていた。

 「基本的には黒字経営。市文協は市税を投入して運営しているわけでもなかったのに、なぜ解散を迫られたのかわからない」と担当者は憤る。

 この保存技術は「利益を生むため行政にはそぐわない」などとして、市教委には継承されないという。府センターも保存処理事業は実施しておらず、移管の予定はない。

十数万の蔵書を韓国に譲渡

 さらに市文協の十数万冊に及ぶ蔵書は国内での引き取り手が見つからず、韓国の研究機関に譲渡が決まっている。担当者は「貴重な資料。本来であれば国内に残しておくべきものだった」と肩を落とした。

 市文協の評議員で大阪公立大文学研究科の岸本直文教授(考古学)は「質の高い研究で市の文化財保護を長年にわたって支えてきた。解散の理由が不明だ」と指摘。その上で「埋蔵文化財は文化財全体の中で大きな柱の一つ。研究体制が弱体化しないよう、行政が責任を持たなければならない」と述べた。

 市教委の担当者は「発掘調査についてはすでに市と府センターに移管され、滞りなく事業が進んでいる。課題や問題は今のところない」としている。(石橋明日佳)


第3380話 2024/11/20

『旧唐書』倭国伝の

      「四面小島、五十餘国」

 飛鳥・藤原跡から出土した七世紀後半(評制)の荷札木簡の献上国一覧については、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注①)。その献上国分布には従来の一元史観では説明し難い問題がありました。その最たるものが、周防国・伊予国よりも西側の国々、すなわち九州諸国からの荷札木簡が一点も見えないという出土事実です。従来説では、九州諸国の献上物(税など)は、一端、大宰府に集められたためと説明されているようです。しかしそれならば、大宰府からの荷札木簡があってもよいはずですが、飛鳥・藤原跡からは出土していません。他方、平城京跡からは大宰府からの荷札木簡が出土しています(注②)。

 この荷札木簡の献上国の分布状況を知り、『旧唐書』倭国伝の記事と対応していることに気づきました。

【『旧唐書』倭国伝の冒頭】
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」

 「四面小島五十餘國、皆附屬焉」の一節は、倭国の周囲(四面)に小島と五十余国があり、皆倭国に附屬していると読めます。この五十余国とは、律令制の六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国を除いた国の数(五十六国)ではないでしょうか。なお、九州王朝(倭国)による六十六ヶ国分国については正木裕さんの研究がありますのでご参照ください(注③)。

 この理解が正しければ、九州を除く五十余国は王朝交代直前の近畿天皇家の統治領域となり、『旧唐書』日本国伝に見える「日本舊小國、併倭國之地」の「地」であり、倭国全体を併合する王朝交代の歴史経緯の一局面を荷札木簡の分布は示しているのではないでしょうか。そして、「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」に見える毛人国は蝦夷国とする理解も成立しそうです。

 このように同時代史料で自国出土の木簡を基本エビデンスとして、後代史料である中国史書の倭国伝などを理解するという学問の方法を改めて重視したいと思います。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
同「洛中洛外日記」2399話(2021/03/04)〝飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)〟
同「洛中洛外日記」3377話(2024/11/10)〝王朝交代前夜の天武天皇 (4)〟
②奈良文化財研究所HP「木簡庫」によれば、次の「大宰府」木簡が平城京跡から出土している。
○【木簡番号】0
【本文】・大宰府貢交易油三斗□□〔五升ヵ〕・○寶亀三年料
【遺跡名】平城京左京七条一坊十六坪東一坊大路西側溝
【遺構番号】SD6400 【国郡郷里】筑前国大宰府
【和暦】宝亀3年【西暦】772年
○【木簡番号】0
【本文】□□〔筑紫〕大宰進上筑前国嘉麻郡殖□〔種〕→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国嘉麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上筑前国穂波→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国穂浪郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上肥後国託麻郡…□子紫草
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】文書
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】←□〔紫〕大宰進上肥後国託麻郡殖種子紫→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上薩麻国殖→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・薩摩国
③正木 裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号、2010年。
「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第3379話 2024/11/16

1/19新春古代史講演会(京都市)

     案内チラシ作成中

 本日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。次回、12月例会の会場は都島区民センターです。

 今回、わたしは「九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文―」を発表しました。飛鳥池出土の「天皇」「皇子」「詔」木簡などを根拠に、天武は九州王朝の天子の下でナンバーツーとしての天皇号を名のっていたことを解説しました。概ね、参加者からはご理解いただけたようで、引き続き木簡研究を進め、藤原宮出土木簡についても報告したいと締めくくりました。

 例会の冒頭に、10/28東京講演会と11/10福岡講演会について報告し、来年1/19の新春古代史講演会(京都市)の案内も行いました。同案内チラシのゲラが竹村事務局次長より配られました。なかなかの出来映えで、明るく新春講演会にふさわしいチラシとなりました。近日中には印刷を終え、広く宣伝したいと思います。各地の博物館や公共施設などに置かせて頂ければ有り難いです。皆さんのご協力をお願いいたします。

 11月例会では下記の発表がありました。なお、発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔11月度関西例会の内容〕
①消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我君 (大山崎町・大原重雄)
②九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文― (京都市・古賀達也)
③縄文語で解く記紀の神々 垂仁帝 (大阪市・西井健一郎)
④「法興」はタリシホコの建元年号 (東大阪市・萩野秀公)
⑤白鳳・朱雀・朱鳥・大化期の天子は誰か (茨木市・満田正賢)

○東京講演会・福岡講演会の報告と新春古代史京都講演会の案内 (代表・古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
12/21(土) 10:00~17:00 会場 都島区民センター
01/18(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
02/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館

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古田史学の会 東成区民センター 2024.11.21

2024年11月度関西例会発表一覧
(YouTube動画)

①消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我君 (大山崎町・大原重雄)

1,大原重雄@消された百済毗有王と武寧王が送った女性の斯我

https://youtu.be/78FDKycjZ30
https://youtu.be/TfF9Dw7xUL0
https://youtu.be/Rmn7Gm3Ia0s

冨川ケイ子@武烈天皇紀における「倭君」@古田史学会報78号

2,九州王朝研究のエビデンス ―「天皇」木簡と金石文― (京都市・古賀達也)

https://youtu.be/5-bUlvSsDiA

https://youtu.be/Y-QeZMM_3Ok

https://youtu.be/A2h_IS0SuhE

https://youtu.be/u0wK3j8PGF0

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸ 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU
令和6年(2024) 10月18日(金) 多元の会リモート古代史研究会

3,縄文語で解く記紀の神々 垂仁帝 (大阪市・西井健一郎)

①https://www.youtube.com/watch?v=LsoAn5x0l_M

 

4,「法興」はタリシホコの建元年号 (東大阪市・萩野秀公)

①https://www.youtube.com/watch?v=qsqe47SUUFE

 

5,白鳳・朱雀・朱鳥・大化期の天子は誰か (茨木市・満田正賢)

①https://www.youtube.com/watch?v=ZV-90Jl-EgY


第3378話 2024/11/12

王朝交代前夜の天武天皇 (5)

 本シリーズの最後に、『日本書紀』天武紀に記された天武の和風諡号「天渟中原瀛真人天皇」(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)について考察します。

 『日本書紀』の成立は720年であり、厳密には天武天皇と全くの同時代の史料とは言えません。しかしながら、同諡号は天武天皇が崩御(686年)したときに遺族(天武の子ら)により付けられたものと考えられることから、「天渟中原瀛真人天皇」そのものは崩御時の史料に基づいて、天武の子や孫の世代により『日本書紀』に記されたものと考えざるを得ません。

 この天武の諡号で注目されるのが、「天皇」でありながら「真人」が付されていることです。天武紀によれば、真人とは、天武十三年(684)に制定した八色(やくさ)の姓(カバネ)の一つです。上位から順に、真人(マヒト)・朝臣(アソミ)・宿禰(スクネ)・忌寸(イミキ)・道師(ミチノシ)・臣(オミ)・連(ムラジ)・稲置(イナギ)とあり、八色の姓で臣下第一の「真人」姓が、崩御後に天武天皇の諡号に採用されているのです。この事実の持つ意味は重いと思います。

 この『日本書紀』天武紀の記述が正しければ、天皇が臣下に与える「八色の姓」を天武十三年(684)に制定し、その二年後に天武の子らは天武の諡号として「真人天皇」を選んだことになり、これは一元史観の通説では説明し難いことです。そのため、諡号の真人は道教思想の真人(しんじん)のことであり、八色の姓の真人(まひと)とは異なるとする理解も出されているようですが、これはかなり無茶な言いわけではないでしょうか。その言葉の淵源が「真人(まひと)」であろうが「真人(しんじん)」であろうが、天武紀に八色の姓制定記事を載せ、その臣下第一の「真人」を天武の諡号に採用したという事実にかわりはないからです。

 しかし、多元史観・九州王朝説に立てば、八色の姓を制定したのは九州王朝の天子であり、その第一の臣下である天武天皇に「真人」姓を与えたという理解が可能です。飛鳥出土の荷札木簡によれば、九州を除く列島諸国を統治していた天武天皇ですが、王朝交代前夜の時代では九州王朝の天子が倭国全体を「治天下」しているという大義名分がまだ成立していたものと思われます。その根拠の一つとして、七世紀第4四半期に九州年号が使用されていたという史料事実もあります(注)。

 以上、本シリーズで紹介した同時代エビデンスは、王朝交代前夜の九州王朝下のナンバーツーとしての天武天皇の姿に迫ることができたように思われます。これからも九州王朝研究を同時代のエビデンスベースで進めていきます。(おわり)

(注)「白鳳壬申(672年)骨蔵器」や「朱鳥三年戊子(688年)鬼室集斯墓碑」、「大化五子年土器(699年、骨蔵器)」などの同時代金石文が九州年号の存在を証明している。

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸  — 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3377話 2024/11/10

王朝交代前夜の天武天皇 (4)

 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、木簡の年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観には幅がありますし、天武が天皇を称し始めた年次そのものを特定できるわけでもありません。この点、もう少し年次を絞り込める七世紀の金石文があります。京都市左京区上高野から出土した小野毛人墓誌です。銘文には「飛鳥浄御原宮治天下天皇」「歳次丁丑年(677)」とあることから、遅くとも丁丑年(天武六年、677年)には天武が天皇を称したことを示す同時代金石文です。

【小野毛人墓誌銘文】
(表)飛鳥浄御原宮治天下天皇御朝任太政官兼刑部大卿位大錦上
(裏)小野毛人朝臣之墓営造歳次丁丑年十二月上旬即葬
【釈文】
飛鳥浄御原宮に天の下治す天皇の御朝で、太政官、兼刑部大卿、大錦上の位を任ぜられる。
小野毛人朝臣の墓を歳次丁丑年(677)十二月上旬に営造し、即ち葬る。

 この墓誌銘も〝天武八年(679)頃に天武にとっての画期があった〟とする仮説と矛盾しません。当時、天武天皇の下に「太政官」「刑部大卿」という官職があったことも示しており、貴重な金石文です。ここで問題となるのが、「治天下天皇」の「治天下」の範囲です。近畿天皇家にとって、「天下」が倭国全土を意味するのは王朝交代(701年)以降のことですから、天武期に天武天皇が「治天下」した範囲は、飛鳥出土の荷札木簡により推定することができます。

 「洛中洛外日記」(注①)でも紹介しましたが、飛鳥地域と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。
市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注②)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。ここでいう飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡のことです。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   6   1   7
志摩国   1   1   2
尾張国   9   8  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 227 123 350

 七世紀の飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国に、九州諸国が見えないことにわたしは注目してきました。これは天武・持統期における近畿天皇家の統治領域に九州が含まれていないことを示唆しており、すなわち小野毛人墓誌の「治天下」には九州が含まれていないと考えることができます。

 この理解が正しければ、王朝交代前夜の日本列島には、九州を「治天下」していた九州王朝(倭国)の天子と、その他の領域を「治天下」していた近畿天皇家(日本国)の天皇とが〝併存〟していたことになります。もちろん、この場合でも年号(九州年号)を公布していたのは九州王朝であり、大義名分上は列島を「治天下」していた代表王朝は倭国(九州王朝)であったと考えられます。しかしながら、この時期の荷札木簡の献上国の範囲を比較する限り、実勢力は天武天皇ら近畿天皇家が上であったと考えざるを得ません(注③)。(つづく)

(注)
①「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
②市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。
③本稿で論じた荷札木簡の献上国の分布事実は『旧唐書』日本国伝の記事「日本舊小國、併倭國之地」の歴史経緯の一端を示しているのではあるまいか。


第3376話 2024/11/09

王朝交代前夜の天武天皇 (3)

 当シリーズでは、天武八年(679)頃に天武にとっての画期(天皇号使用公認か。王朝交代は701年。:古賀試案)があったとする、エビデンスに基づく次の3件の調査研究を紹介しました。

(1) 飛鳥池出土「天皇」木簡の天皇は天武のことであり、その年代は天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする奈良文化財研究所による年代観(注①)。
(2) 天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)。
(3)『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すとする都司嘉宣さんの研究(注③)。

 (1)は同時代史料の出土木簡を、(2)(3)は後代史料の『日本書紀』(720年成立)をエビデンスとして成立していますが、それぞれ異なる視点の調査研究でありながら、その結論は同じ方向へと収斂しており、これを偶然の一致とするよりも、史実を反映したものとするのが妥当と思われます。この理解を支持するもう一つのエビデンスを紹介します。それは飛鳥(飛鳥宮跡・飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺構・他)出土の荷札木簡群です。

 「洛中洛外日記」(注④)でも紹介しましたが、市大樹さんが作成した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」(注⑤)によれば、七世紀(評制時代)の荷札木簡350点のうち、産品を献上した年次(干支)が記されたものが49点あります。年次順に並べました。次の通りです。

【飛鳥・藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
《天智期》
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
《天武期》
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡(下層大溝SD1901A)
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
《持統期》
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
《694年12月 藤原京遷都》
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
《文武期》
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡
701 《「大宝」建元 王朝交代》

 天武期に注目すると、天武五年から荷札木簡が現れ、六~八年に増えており、この時期に天武の統治力が増したように見えます。ただし、その範囲は東国諸国(美濃国)が中心のようです。恐らくは壬申の乱でこの地域の豪族が天武を支持したのではないでしょうか。もちろん、出土木簡中の年干支が記されたものに限っての判断であり、実際の統治範囲はもっと広範囲だったと思われます。このような飛鳥での荷札木簡の出現・増加時期が、天武八年(679)頃に天武にとっての画期があったとする本テーマの仮説と整合しており、貴重なエビデンスです。(つづく)

(注)
①『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、2021年。
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④古賀達也「洛中洛外日記」2395話(2021/02/28)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代〟
⑤市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』塙書房、2010年。


第3375話 2024/11/08

王朝交代前夜の天武天皇 (2)

 「洛中洛外日記」前話(注①)で、飛鳥池出土「天皇」木簡の年代を天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まるとする判断と、天武紀に見える「詔」の年次別出現数が天武八年(679)から目立って増加するという新保高之さんの調査結果(注②)により、天武が天皇を名のり始めた頃から詔を多発し始めたとする見解を述べました。この天武八年頃に天武にとっての画期点があったのではないでしょうか。このことを示唆する研究が最近発表されました。都司嘉宣さんの論文「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」です(注③)。

 『古田史学会報』最新号一面に掲載された同論文はわずか2頁弱(半頁の表を含む)の短文ですが、『日本書紀』『続日本紀』には、列島遠方地の災害が天武七年(678)から記録されており、この史料事実は、それよりも前は近畿天皇家は列島の代表者ではなかったことを示すものとしました。そして、わたしや新保さんの研究結果とも整合する内容であり、王朝交代前夜の近畿天皇家の実体に迫る上で貴重な知見と言えるでしょう。都司稿は非常に簡潔で秀逸な論文であり、まるで理系論文を読んでいるような気がしました。

 余談ですが、二十世紀最大の発見とされるワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造説を発表したネイチャー誌掲載論文(注④)もわずか2頁です。この短い論文によりワトソンらはノーベル生理学・医学賞(1962年)を受賞しました。わたしも古代史の分野で画期的で短い論文をいつかは書いてみたいと、青年の頃、身の程知らずにも思ったものです。

 都司さんは元東京大学地震研究所准教授で、古田先生が立ち上げた国際人間観察学会の特別顧問でした。同研究会の会報「Phoenix」No.1(2007)は同地震研究所のお力添えを得て発行したもので、都司さんの論文“Similarity of the distributions of the strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka Plain and the ancient Kawachi Lagoon”と拙稿“A study on the long lives described in the classics”などが収録されています。拙稿は世界の古典に見える二倍年暦(二倍年齢)に関する英文論文です。都司論文は歴史地震学に関するもので、こうした専門知識と研究実績が背景にあって、「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」を書かれたものと思われます。なお、「Phoenix」は「古田史学の会」ホームページに採録されています。ご覧いただければ幸いです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3374話(2024/11/07)〝王朝交代前夜の天武天皇 (1)〟
②新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
③都司嘉宣「七世紀末の王朝交代を災害記録から検証する」『古田史学会報』184号、2024年。
④J.D.Watson & F.H.C.Crick: MOLECULAR STRUCTURE OF NUCLEIC ACID A Structure for Deoxyribose Nucleic Acid Nature 171,737-738(1953)


第3374話 2024/11/07

王朝交代前夜の天武天皇 (1)

 七世紀の第4四半期、飛鳥宮にて近畿天皇家の天武は「天皇」を名乗り、その子供たちは「皇子」を称していたとする、飛鳥池遺跡出土木簡(同時代史料)という最有力エビデンスに基づく論稿を『古田史学会報』に発表しました(注①)。

 もし、七世紀における「天皇」号は九州王朝の「天子の別称」とする古田新説に基づくのであれば、同「天皇」木簡の天皇も九州王朝の天子の別称となりますが、そうであれば飛鳥にいた天武は「大王」とでも呼ばれていたのでしょうか。しかし、天武の子供たちは、「大王」や「王」の子を意味する「○○王子」ではなく、「舎人皇子」「大伯皇子」「大津皇(子)」「穂積皇子」と飛鳥池出土木簡にはあることから、父親の天武も「大王」ではなく、「天皇」を称していたと考えざるを得ません。こうした論理性から考えても、「天皇」木簡の天皇を天武のこととする通説は、エビデンスベース(注②)という学問の方法に基づき妥当なものです。同時代出土木簡という最有力エビデンスは、後代史料である『日本書紀』の解釈論よりも優先すること、論を俟ちません。

 「天皇」木簡が出土した飛鳥池遺跡の大溝遺構SD1130からは、干支(「庚午年」天智九年、六七〇年。「丁丑年」天武六年、六七七年。「丙子年」天武五年、六七六年)、「評(こおり)」、「五十戸(さと)」表記を持つ木簡も出土しており、「郡」(七〇一年から採用)「里」(天武期後半以降に出現)木簡は見えないので、天武期の前半頃とする年代観を示唆します。また、調査報告書(『奈良文化財研究所学報第七一冊 飛鳥池遺跡発掘調査報告 本文編〔Ⅰ〕─生産工房関係遺物─』奈良文化財研究所、二〇二一年)には遺構の年代を〝溝自体が短期間しか存続しなかったことから、木簡群は短期間に廃棄されたと考えられ、木簡の年代は天武五〜七年を含む数年間に収まると判断できる。〟としています。

 飛鳥池遺跡からは「詔」木簡も出土しており、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代前であるにもかかわらず、天武天皇らは飛鳥宮で詔を発するなど、「天皇」に相応しい振る舞いをしていたことも拙論で紹介しました。それは次の木簡です。

《飛鳥池遺跡南地区 SX1222粗炭層》
【木簡番号】63
【本文】二月廿九日詔小刀二口○針二口○【「○半\□斤」】
【木簡説明】天武天皇もしくは持統天皇の詔を受けて小刀・針の製作を命じた文書、あるいはその命令を書き留めた記録であろう。ただし「詔」は「勅旨」と同様、供御物であることを示す語の可能性もある。

 この様な木簡研究の知見に対応する文献史学の調査研究を新保高之さんが発表しました(注③)。それは天武紀に見える「詔」の年次毎の出現調査で、その一覧表によれば天武八年(679)から「詔」が増えていることが見て取れました(注④)。

 「天皇」木簡の年代が天武五〜七年(676~678)を含む数年間に収まると報告されており、新保さんの「詔」分布調査結果と整合することから、天武は天皇を名のった(名のることを九州王朝から認められた)頃から、飛鳥宮で詔を多発し始めたととらえることができそうです。「天皇」木簡の年代観と『日本書紀』天武紀の「詔」分布の対応は偶然の一致ではないように思われます。これは古田先生が言うところの〝シュリーマンの法則〟、すなわち「考古学出土事実と文献・伝承が一致していればそれはより真実に近い」に適っているのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①古賀達也「飛鳥池出土「天皇」「皇子」木簡の証言」『古田史学会報』184号、2024年。
②古田武彦記念古代史セミナー(大学セミナーハウス主催)の実行委員長、荻上紘一氏は同セミナーでの挨拶において、くり返しエビデンスベースの重要性を次のように訴えている。深く留意すべきである。
〝古代史学においては「史実」の解明が基本であり、そのための作業則ち「証明」は論理的、客観的、科学的であり、当然のことながらevidence-basedでなければなりません。〟「古田武彦記念古代史セミナー2024講演予稿集」
③新保高之「東京古田会・読書会〔天武天皇紀下⑩〕」2024年10月26日。
④新保氏作成の一覧表をまとめると、天武紀の「詔」分布は次のようである。
天武二年 3件、同三年 0件、同四年 5件、同六年 1件、同七年 0件、同八年 6件、同九年 1件、同十年 7件、同十一年 6件、同十二年 6件、同十三年 5件、同十四年 3件、朱鳥元年 3件。

 

参考

九州王朝研究のエビデンス⑸ 「天皇」「皇子」木簡 (付)金石文 古賀達也
https://www.youtube.com/watch?v=C_aCz0pAlPU


第3373話 2024/11/05

新春古代史講演会を京都市で開催決定

一昨日の「古田史学の会」役員会にて、恒例の新春古代史講演会を来年1月19日(日)午後に京都市のキャンパスプラザ京都(JR京都駅北)で開催することを決定しましたのでお知らせします。

講師として次の三名の方をお招きします。関川尚功先生と正木裕さんは、10月27日に開催した創立30周年記念東京講演会で講演していただいたばかりですが、大好評でしたので、京都でも講演していただくことにしました。また、「古田史学の会」としては始めて文化庁の中尾智行参事官をお招きします。若者にも考古学に興味を持って頂きたいとのご主旨で、講演していただけることになりました。

詳細は後日ご案内申し上げます。令和七年の新春を飾るにふさわしい講演会になることと思います。ご期待下さい。

《講師・演題》
(1) 中尾智行氏 (文化庁 博物館支援調査官) 考古学と博物館の魅力を未来に
(2) 関川尚功氏 (橿原考古学研究所元所員) 畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
(3) 正木 裕氏 (古田史学の会・事務局長、元大阪府立大学理事・講師) 百済の古墳と「倭の五王」