王朝交代直後(八世紀第1四半期)
の筑紫 (1)
「洛中洛外日記」3380話(2024/11/20)〝『旧唐書』倭国伝の「四面小島、五十餘国」〟などで、王朝交代前夜(七世紀第4四半期)の倭国(九州王朝)と近畿天皇家(後の大和朝廷・日本国)の実勢力範囲(統治領域)を飛鳥・藤原出土荷札木簡の献上国名を根拠に論じました。今回は王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を確かなエビデンスに基づき、考察を試みたいと思います。
最初のエビデンスは「大宝」年号木簡です。福岡市西区の元岡・桑原遺跡から次の「太寶元年」木簡が出土しています。奈良文化財研究所の「木簡庫」より、要約転載します。ここで留意していただきたいのが、通常は「大寶」とされていますが、出土木簡のほとんどは「太寶」と、「太」の字が採用されています。その理由は知りませんが、興味深いことです。「太宰府」と「大宰府」のように、現存地名などは太宰府ですが、『日本書紀』などでは大宰府と記されており、「太」と「大」には何か歴史的背景がありそうです。
【木簡番号】8
【本文】・太寶元年辛丑十二月廿二日\白□□□〔米二石ヵ〕〈〉鮑廿四連代税\○官川内□〔歳ヵ〕六黒毛馬胸白・○「六人部川内」
【出典】木研33-162頁-(5)(『元岡・桑原遺跡群14』-8・木簡黎明-(165)・木研23-158頁-(5))
【文字説明】裏面「部(マ)」は「ア」の字形。
【遺跡名】元岡・桑原遺跡群
【所在地】福岡県福岡市西区大字桑原字戸山
【遺構番号】SX002
【内容分類】荷札・文書?
【人名】六人部川内
【和暦】(辛丑年)大宝1年12月22日
【西暦】701年12月22日
この木簡が指し示すように、王朝交代したその年(701年)の暮れには、九州王朝(倭国)の中枢領域で大和朝廷(日本国)最初の年号「太寶」が使用されていることは注目されます。この事実は、少なくとも筑前国ではスムーズに権力移行がなされたことを示唆します(注①)。
なお、服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」(注②)によれば、次のように読まれています。
〔仮に表面とする〕
大寶元年辛丑十二月廿二日
白米□□宛鮑廿四連代税
宜出□年□*黒毛馬胸白
〔裏面〕
六人□** (花押)
□は判読不明。□*を「六」、□**を「過」とする可能性も指摘されています。(つづく)
(注)
①「洛中洛外日記」3051~3054話(2023/06/24~27)〝元岡遺跡出土木簡に遺る王朝交代の痕跡(1)~(4)〟
②服部秀雄「韓鉄(大宰府管志摩郡製鉄所)考 ―九州大学構内遺跡出土木簡―」『坪井清足先生卒寿紀年論文集』2010年。