2024年11月28日一覧

第3384話 2024/11/28

王朝交代直後(八世紀第1四半期)の

             筑紫 (3)

 王朝交代直後(八世紀第1四半期)の筑紫の実情を「太寶元年」木簡と「大宝二年籍」西海道戸籍に基づいて考察しましたが、今回は筑紫大宰府が大和朝廷の支配下に置かれたことを端的に示す「和銅」ヘラ書き須恵器甕片を紹介します。
『延喜式』「主計寮上」によれば、筑前国の「調」(注①)として「大甕九口」「小甕百九十五口」が記されています。そのことを示すヘラ書き甕片が牛頸(うしくび)須恵器窯跡群や大宰府条坊跡から出土しています。それには次の文字がヘラ書きされています。

❶「*甕和銅八年」
❷「仲郡手」
❸「筑紫前国奈珂郡
手東里大神マ得身

幷三人
調大*甕一隻和銅六年」
❹「年調大*甕一」
❺「大神君百江
大神部麻呂
内椋人万呂
幷三人奉
*甕一隻和銅六年」
※*甕は瓦偏に長。

❶は大宰府条坊跡の羅城門近くから出土。❷~❺は牛頸須恵器窯跡群出土。

 これらの銘文から、和銅六年(713)頃には筑前国が日本国(大和朝廷)の収税の対象に入っていたことがわかります。しかし、それ以前の年号(大寶・慶雲)が記された甕片などが見えないことから、大宝元年(701)に日本国(大和朝廷)の影響下(大宝律令に基づく統治領域)に入った筑前国は和銅年間(708~715)に至り、本格的な収税の対象国に組み込まれたと考えることができそうです。

 この点、注目されるのが『続日本紀』養老二年(719)四月条の「道君首名(みちのきみおびとな)卒伝」です。「洛中洛外日記」(注②)で論じてきたところですが、首名が筑後国の国司に就任(肥後国兼任)した次の記事が見えます。

「和銅末。出爲筑後守。兼治肥後國。」〔和銅の末に出(い)でて、筑後守となり、肥後國を兼ね治き。〕

 和銅年間の末年は和銅八年(715年)ですから、先の大宰府条坊跡から出土した「和銅八年」ヘラ書き甕片との一致は偶然ではなく、大宝元年から和銅八年にかけて、筑前国を完全に自らの律令体制に組み込んだ大和朝廷が、次に筑後国(肥後国兼任)にも国司を派遣したという王朝交代直後の歴史経緯の痕跡ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①租庸調の一つで、都へ上納した地域の産物(布・糸・絹・特産物など)が「調」と呼ばれている。
②古賀達也「洛中洛外日記」3350~3362話(2024/09/23~10/05)〝『続日本紀』道君首名卒伝の「和銅末」の考察 (1)~(7)〟