『旧唐書』倭国伝・日本国伝の
「蝦夷国」 (2)
『旧唐書』の倭国伝(注①)に記された倭国の領域「東西五月行」には蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」の一つとして含まれるとしましたが、日本国伝(注②)に見える「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」の「国界」とは異なることが気になっていました。と言うのも、東と北にある大山の外の「毛人の国」をわたしは蝦夷国としましたので、701年の倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代にともない、日本国は倭国の統治領域をほぼそのまま受け継いだとすれば、「国界」(国境)も大きくは変わらないと考えていたからです。しかし、これはわたしの誤解でした。
結論を言えば、七世紀以前の九州王朝時代と八世紀以降の大和朝廷時代とでは、両国と蝦夷国との関係は大きく異なっており、その関係性の変化が「国界」にも現れていたのです。従って、倭国伝には七世紀後半頃の倭国の「附屬」の「五十餘国」として「東西五月行」に蝦夷国は含まれ、王朝交代後の姿を記した日本国伝には山外の別国(毛人の国)として蝦夷国が記されたと考えられます。すなわち、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にあり、蝦夷国は倭国の文化(仏教も)を受容し、事実上の朝貢国であったと思われます(注③)。そのこと示す記事が『日本書紀』敏達紀に見えます。
〝十年の春閏二月に、蝦夷数千、邊境に冦(あたな)ふ。
是に由りて、其の魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)等を召して、〔魁帥は、大毛人なり〕詔して曰はく、「惟(おもひみ)るに、儞(おれ)蝦夷を、大足彦天皇の世に、殺すべき者は斬(ころ)し、原(ゆる)すべき者は赦(ゆる)す。今朕(われ)、彼(そ)の前の例に遵(したが)ひて、元悪を誅(ころ)さむとす」とのたまふ。
是(ここ)に綾糟等、懼然(おぢかしこま)り恐懼(かしこ)みて、乃(すなわ)ち泊瀬の中流に下て、三諸岳に面(むか)ひて、水を歃(すす)りて盟(ちか)ひて曰(もう)さく、「臣等蝦夷、今より以後子子孫孫、〔古語に生兒八十綿連(うみのこのやそつづき)といふ。〕清(いさぎよ)き明(あきらけ)き心を用て、天闕(みかど)に事(つか)へ奉(まつ)らむ。臣等、若(も)し盟に違はば、天地の諸神及び天皇の霊、臣が種(つぎ)を絶滅(た)えむ」とまうす。〟『日本書紀』敏達十年(581)閏二月条
この記事は三段からなっており、一段目は蝦夷国と倭国との国境で蝦夷の暴動が発生したこと、二段目は倭国王が蝦夷国のリーダーとおぼしき人物、魁帥(ひとごのかみ)綾糟(あやかす)らを呼びつけて、大足彦天皇(景行)の時のように征討軍を派遣するぞと恫喝し、三段目では綾糟らは詫びて、これまで通り臣として服従することを盟約した、という内容です。すなわち、綾糟らは自らを倭国の臣と称し、倭国と蝦夷国は天皇(天子)と臣の関係であることを現しています。これは倭国を中心とする日本版中華思想として、蝦夷国を冊封していた記事ではないでしょうか。(つづく)
(注)
①『旧唐書』倭国伝冒頭の記事。
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
②『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
③古賀達也「洛中洛外日記」2381~2397話(2021/02/15~03/02)〝「蝦夷国」を考究する(1)~(12)〟
同「洛中洛外日記」2795話(2022/07/23)〝羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言〟
同「洛中洛外日記」2799話(2022/07/31)〝勝照四年(588年)、蝦夷国への仏教東流の痕跡〟
同「洛中洛外日記」2800話(2022/08/01)〝倭国(九州王朝)の天子と蝦夷国の参仏理大臣〟
同「洛中洛外日記」2901~2903話(2022/12/26~30)〝蝦夷国領域「会津・高寺」への仏教伝来 (1)~(3)〟
同「蝦夷国への仏教東流伝承 ―羽黒山「勝照四年」棟札の証言―」『古田史学会報』173号、2022年。