『旧唐書』倭国伝・日本国伝
の「蝦夷国」 (3)
『旧唐書』倭国伝に記された倭国の領域「東西五月行」に蝦夷国(後の出羽国・陸奥国)が「附屬」の「五十餘国」として含まれると考えたのですが、同日本国伝(注①)では「其の国界は東西南北各數千里。西界、南界は大海に至る。東界、北界は大山が有り、限りと為す。山外は卽ち毛人の国」とあり、列島の東北部の「山外」は「毛人の国」と別国表記されています。すなわち、701年の王朝交代後の日本国の領域は倭国よりも縮小していることから、「毛人の国」とは蝦夷国と考えざるを得ません。おそらく王朝交代により、蝦夷国は倭国の冊封(附屬)から離脱し、新たな列島の代表王朝となった日本国に「附屬」しなかったものと思われます。
このことを示唆するのが、『続日本紀』以降の六国史(注②)などに頻出し始める蝦夷征討記事です。以下、「東北蝦夷の滅亡史」(注③)より関連記事を抜粋します。
708年 朝廷、陸奥への進出を本格化。史上初めての陸奥守として上毛野朝臣小足が任命される。遠江・駿河・甲斐・信濃・上野から兵士を徴発し軍団を編成。陸奥国の南半分(福島県)が朝廷の影響下に入る。
709年 蝦夷が越後に侵入。朝廷は、「越後・陸奥二国の蝦夷は野蛮な心があって馴れ難く、しばしば良民を害する」として征討を指示。陸奥鎮東将軍に巨勢朝臣麻呂を、征越後蝦夷将軍に佐伯宿禰石湯を任命。関東と北陸の兵士を集め、陸奥鎮東軍は東山道を、征越後軍は北陸道を北上。石湯の率いる征越後蝦夷軍は越前・越中・越後・佐渡の四国から百艘の船を徴発。船団は最上川河口まで進み、ここに出羽柵を造設。
712年 越後の国出羽郡、陸奥國から最上・置賜の二郡を分割・併合し出羽国を設立。
714年 尾張・上野・信濃・越後の国の民二百戸が出羽柵に入る。諸国農民が数千戸の規模で蝦夷の土地を奪い入植。移住は総計千三百戸におよぶ。
716年 巨勢朝臣麻呂が朝廷に建白。「出羽国においては和人が少なく狄徒も未だ十分に従っていない。土地が肥沃で田野も広大であるから、近国の人民を移住させ、狄徒を教え諭すと共に、土地の利益を確保すべきである」との建言に基づき、陸奥国の置賜・最上の二郡と、信濃・上野・越前・越後の四国の百姓それぞれ百戸を出羽国に移す。
718年 陸奥の南部を分割し、常陸国菊多から亘理までの海岸沿いを石城国、会津をふくめ白河から信夫郡までを石背国とする。
720年(養老四年) 蝦夷の叛乱。按察使(あぜち)の上毛野朝臣広人が殺される。持節征夷将軍と鎮狄将軍が率いる征討軍が出動。
721年 征討軍、蝦夷を千四百人余り、斬首・捕虜にし都に帰還。
724年(神亀元年) 海道の蝦夷が反乱。陸奥大橡の佐伯宿祢児屋麻呂を殺害。
724年 朝廷は藤原宇合を持節大将軍に任命。関東地方から三万人の兵士を徴発し、これを鎮圧。
724年 出羽の蝦狄が叛乱。小野朝臣牛養を鎮狄将軍として派遣。
725年 陸奥国の俘囚を伊予国に144人、筑紫に578人、和泉監に15人配す。この後和人に抵抗する蝦夷を数千人規模で諸国に配流。
733年 大野東人、出羽地方の本格的平定に乗り出す。
736年 朝廷は出羽平定作戦を承認。藤原不比等の息子である藤原麻呂を持節大使に任命。関東六国から騎兵千人など大規模な征討軍を編成。
737年 大野東人が大軍を率い、多賀城を出発。
737年 出羽討伐軍、奥羽山脈を越え大室駅に至り、出羽国守の田辺難破の軍と合流。
737年 討伐軍、雄勝峠を越え比羅保許山まで進出するが、蝦夷が反撃の姿勢を示したため撤退。
750年 大和朝廷、桃生柵・雄勝柵などの城柵をあいついで設置。
757年 藤原恵美朝臣朝獦が陸奥の守に就任。
760年 雄勝城が藤原朝獦により確立。没官奴233人・女卑277人が雄勝の柵戸(きのへ)として送られる。
762年 多賀城の大改修が始まる。「不孝・不恭・不友・不順の者」が数千の規模で捕えられ、陸奥に送り込まれる。
770年(宝亀元年) 蝦夷の宇漢迷公(ウカンメノキミ)宇屈波宇(ウクハウ)、桃生城下を逃亡し賊地にこもる。大和朝廷への朝貢を停止。呼び出しに応じず、「同族を率いて必ず城柵を侵さん」と宣言。朝廷は道嶋嶋足を派遣。
774年 大和朝廷の大伴駿河麻呂、二万の軍勢を率いて東北に侵攻。東北地方全土を巻き込む「三十八年戦争」が始まる。
776年 大伴駿河麻呂、出羽国志波で蝦夷軍と対決。蝦夷軍はこれを押し返すが、駿河麻呂は陸奥軍三千人を動員して撃破。
778年 出羽の蝦夷が朝廷軍を打ち破る。俘囚の長で陸奥国上治郡の大領、伊治公呰麻呂(いじのきみ・あざまろ)が伊治柵司令官となる。
780年(宝亀十一年) 呰麻呂が蜂起。陸奥国按察使の紀広純らを殺害。多賀城を略奪し焼き落とす。朝廷は藤原継縄を征東大使に、大伴益立・紀古佐美を征東副使とする討伐軍を編制。数万の兵力で多賀城を奪回するが、呰麻呂は一年にわたり抵抗を続ける。反乱は出羽地方の蝦夷へも拡大。朝廷は出羽鎮狄将軍に阿倍家麻呂を任命。
784年 大伴家持を征東将軍として陸奥に派遣。高齢の為にまもなく死亡。
788年 桓武天皇、紀古佐美を征夷大将軍に任命。東海・東山・坂東から兵員を集める。日高見国の蝦夷は、胆沢の大墓公阿弖流為(たものきみ・あてるい)と磐具公母礼(いわぐのきみ・もれい)を指導者として防衛体制を固める。
789年 3月、五万の大軍を与えられた紀古佐美は、多賀城を出発。蝦夷の集落十四村・家八百戸を焼き払いながら侵攻。5月末、朝廷軍は急襲にあい惨敗。9月、帰京した紀古佐美は征夷大将軍の位を剥奪される。
791年 大伴弟麻呂が征夷大使に任命される。百済王俊哲、坂上田村麻呂ら4人が征夷副使となり、十万の大軍が編制される。
792年 征東大使大伴弟麻呂、副使坂上田村麻呂に率いられた第二次征東軍が侵攻。十万余に及ぶ兵力で攻撃するが制圧に失敗。
794年 朝廷軍十万が日高見へ侵攻開始。この年だけで関東を中心に、九千人の諸国民が伊治城下の旧蝦夷領に入植。
797年 坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される。
801年 征夷大将軍坂上田村麻呂、第三回目の日高見国攻略作戦。四万の軍が胆沢の阿弖流為軍を破る。
802年 田村麻呂、阿弖流為の本拠地に胆沢城を造築。多賀城から鎮守府を遷す。関東・甲信越から四千人が胆沢城下に送り込まれ、柵戸として警備にあたる。4月、阿弖流為と母礼は生命の安全を条件とし、五百余人を率いて田村麻呂に降伏。8月、朝廷は「蝦夷は野生獣心、裏切って定まりない」として、阿弖流為と母礼を河内国杜山で斬刑に処す。
以上のように、九世紀初頭には蝦夷国は大和朝廷に制圧され、陸奥国・出羽国として日本国の律令体制に組み込まれます。こうした列島内の倭国・日本国・蝦夷国の興亡史を見たとき、七世紀頃には倭国と蝦夷国は主従関係にありましたが、倭国から日本国への王朝交代を期に蝦夷国は独立を果たそうとしたものの、新たな列島の代表王朝となった大和朝廷の過酷な収奪・入植と軍事侵攻により、抵抗もむなしく滅んだものと思います。
本シリーズでの考察により、わたしの多元史観・九州王朝説に基づく蝦夷国研究は、また少し進展したのではないでしょうか。(おわり)
(注)
①『旧唐書』日本国伝冒頭の記事。
「日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本爲名。或曰、倭國自惡其名不雅、改爲日本。或云、日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云、其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國。」
②近畿天皇家の正史、『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』を併せて「六国史」と呼ばれる。
③「東北蝦夷の滅亡史 和人による東北地方の侵略・征服」
http://www10.plala.or.jp/shosuzki/japan_history/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E3%81%AE%E6%BB%85%E4%BA%A1%E5%8F%B2.htm