2024年12月18日一覧

第3396話 2024/12/18

『古田史学会報』185号の紹介

『古田史学会報』185号を紹介します。同号には拙稿〝水野孝夫さんご逝去の報告〟と〝王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言―〟の二編を掲載して頂きました。
後者は、前号掲載の〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟の続編で、荷札木簡(献納国分布)と同時代「天皇銘」金石文をエビデンスとして、七世紀第4四半期における近畿天皇家や天武天皇の実勢力について論じました。それは王朝交代前夜(七世紀の末頃)の列島には、直轄支配領域の九州島に君臨した倭国(九州王朝、大義名分上のナンバーワンとしての天子)と、九州島を除く西日本から関東までを支配した近畿天皇家(大和朝廷、ナンバーツーとしての天武天皇)とが併存していたことを論証したものです。
本号には注目すべき論稿が掲載されていますが、中でも正木稿「『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾」は興味深く拝読しました。同稿では「磐井の乱」に対する古田旧説(「継体の乱」とする)と古田新説(「乱」そのものがなかった)を批判され、「筑後国風土記逸文」に見える石人石馬を打ち壊したのは、700年以後の大和朝廷の隼人(九州勢力)討伐軍であるとする説を発表されました。そして、王朝交代直後の九州の情勢を次のように捉えておられます。

〝『隋書』は、七世紀初頭の「日出る処の天子」阿毎多利思北孤の国には「阿蘇山あり」とし、隋の使者は噴火の様子を記している。そこから七〇〇年に反乱をおこした「肥人(肥後の勢力)」は、多利思北孤の俀(倭)国の中心領域、古田氏の言う九州王朝の中心勢力だったことが分かる。「肥人」の反乱が記されているからには、七〇〇年以降の一連の「反乱」は肥後・薩摩にとどまらず、大和朝廷の支配に反抗する『旧唐書』にいう倭国(九州王朝)の中心地域で広く勃発していたことになる。そして、筑紫から 肥後・薩摩を目指す「官軍(大和朝廷軍)」の行程では、必ず筑後を通過することになる。その際、これを妨げようとする勢力の抵抗があったことは想像に難くない。
石人・石馬を破壊し、抵抗する筑後の人々を弾圧したのは大和朝廷の「隼人(九州勢力)討伐軍の兵士」たちだったのではないか。「古老」はそれを「現認」していた。また、その際障がいを負った人々が多数存在していた。〟

わたしもこの見解に賛成です。実は赤尾恭司さん(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が『万葉集』巻六(971~974番歌)の歌を根拠に、「筑紫の賊」が天平四年(732)に至っても大和朝廷に抵抗していたとする説を「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)などで発表されており、注目してきました。両者は異なるエビデンスに基づき、同様の見解に至ったわけです。王朝交代後の九州王朝の残影が明らかになりつつあります。

『古田史学会報』への投稿は、❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、❷テーマを絞り込み簡潔に。❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、❹史料根拠の明示、❺古田説や有力先行説と自説との比較、❻論証においては論理の飛躍がないようご留意下さい。❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。読んで面白い紙面作りにご協力下さい。
185号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』185号の内容】
○〔訃報〕水野孝夫さんご逝去の報告 古田史学の会・代表 古賀達也
○「船王後墓誌」銘文の「天皇」は誰か
西村秀己・古賀達也両氏への回答(2) たつの市 日野智貴
○岡下英男氏の「定策禁中」王朝交替論に関わる私見 宝塚市 小島芳夫
○小島芳夫氏の拙論への疑問に応える 神戸市 谷本 茂
○『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾 川西市 正木 裕
○王朝交代前夜の天武天皇 ―飛鳥・藤原木簡の証言― 京都市 古賀達也
○古田武彦記念古代史セミナー2024参加の記 千葉市 倉沢良典
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○新春古代史講演会のお知らせ