新年の読書、
法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)
「新年の読書」で紹介している李進煕さんの論文「飛鳥寺と法隆寺の発掘」(注①)は、法隆寺論争の三説(再建・非再建・移築)のうちの非再建説ですが、その非再建説のなかで最も説得力のある主張が、李進煕さんも述べている次の指摘でした。
〝非再建説の重要なよりどころは、現在の法隆寺西院の金堂、塔、中門が大化改新(六四五年)以後には公的に使われなくなる高麗尺で設計されていることである。つまり、高麗尺(今のかね尺の一尺一寸七分五厘)と大化後の公用尺である唐の大尺(今の曲尺の九寸八分)の両方で測ってみると、高麗尺ではきちんと割り切れる数字となるけれども、唐の大尺では端数が出るのである。〟
〝こうしてみると、現在の法隆寺西院の建築様式が改めて問題とならざるをえない。いままでは、石田氏の「若草伽藍跡」発掘の結果をふまえて六七〇年の火災後の再建と認めながらも、建築様式は飛鳥時代のそれを踏襲しているということにならざるをえなかった。〟
〝また、六二三年(推古三一)につくられた金堂の釈迦三尊像についての疑問も解消する。再建説にたてば、一屋も残さず災(ママ)上したというそれこそ火急のときに、あれだけの重量のものをはたして搬出しうるのか、という疑問がどうしても解消しないのである。〟
これらの指摘はもっともなものです。後に、心柱底部断面の年輪年代測定により、伐採年が五九四年であることも明らかになり、現法隆寺の塔や金堂などが飛鳥時代(七世紀初頭頃か)の建造物であることが有力となりました。
他方、若草伽藍が火災で焼失したことは疑えず、現法隆寺との位置関係から、若草伽藍焼失後に法隆寺が建てられたこともまた疑えません。しかし、李進煕さんが指摘したように、法隆寺よりも古いはずの若草伽藍の五重塔心礎が法隆寺よりも新しい様式であり、編年が逆転しているというのも事実です。
ところが、これらの矛盾点を解決しうる説が、1991年に米田良三さん(建築家)から発表されました(注②)。それは、飛鳥時代の様式を持つ九州王朝の古い寺院が、若草伽藍焼失後に移築されたとする法隆寺移築説です。その根拠は、昭和の解体修理工事により明らかとなった法隆寺の建築部材の調査報告書でした。そこには移築の痕跡が遺っていることを建築学的に明らかにされ、移築にあたり金堂と塔の位置が左右逆になっており、元々の伽藍配置は観世音寺式伽藍配置と呼ばれるものであることなどから、移築元寺院を太宰府の観世音寺としました。この移築説は九州王朝説とも対応しており、古田学派内では最有力説として注目されましたが、学界は米田説に対して沈黙したままです。(つづく)
(注)
①李進煕「飛鳥寺と法隆寺の発掘」『日本のなかの朝鮮文化』44号、朝鮮文化社、1979年。
②米田良三『法隆寺は移築された 大宰府から斑鳩へ』新泉社、1991年。