『三国志』短里説の衝撃 (3)
―「短里説」無視の構造―
「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。その理由は、仁藤氏が採用した次のような論理構造の(ⅰ)と(ⅱ)にあります。
(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)
(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)
(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)
(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)
(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)
仁藤氏は(ⅰ)を大前提に論を進めるのですが、実はその大前提が間違っています。前半の〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟というのは仁藤氏の意見であり、それが正しいかどうかは検証の対象です。学問では当たり前のことですが、自らの意見を自説成立の前提とはできません。そのようなことは学者である仁藤氏には分かりきったことのはずです。ですから、後半の〝この点は衆目の一致するところである〟という一文が続いているわけですが、これもまた仁藤氏の意見です。すなわち、それも検証の対象であり、自説成立の前提にはなりません。しかも、「衆目の一致」という意見は二重の意味で誤りです。まず、学問の当否は多数決では決まらないという点で誤っています。更に、古田先生をはじめ(注②)、倭人伝の里程記事は短里によれば比較的正確な行程であり、日本列島内に位置づける説が複数の研究者(注③)から発表されています。したがって、衆目は決して一致しているわけではありません。
(ⅱ)に至っては、長里説(一里約400メートル強)を論証抜きの大前提として初めて言えることであって、短里であればその大前提が崩れ、〝当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低い〟とする仁藤氏の解釈そのものが成立しません。こうした論理構造からもうかがえるように、畿内説は〝倭人伝の里程記事を信用しない理由〟を、それぞれの論者が〝手を変え品を変え〟て、今日まで発表し続けているといっても過言ではありません。この状況こそ、古田先生が
「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。」
と、50年前から言われてきたことなのです(注④)。近年の畿内説論者が、短里説の存在そのものに触れようともしない真の理由がここにあると、わたしは睨んでいます(ⅰとⅱの大前提が崩れるため)。ちなみに、古田先生の学問の方法は彼らとは真逆です。その精神が、名著『「邪馬台国」はなかった』の序文に次のように記されています。
「わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」(つづく)
(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③安本美典氏や荊木美行氏(皇學館大学教授)は短里説を採用し、「邪馬台国」の位置を筑前朝倉や筑後山門とする。小澤毅(三重大学教授)も北部九州説である。
小澤毅「『魏志倭人伝』が語る邪馬台国の位置」『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。