2025年02月13日一覧

第3429話 2025/02/13

『三国志』短里説の衝撃 (4)

    ―『三国志』の中の短里―

 仁藤敦史氏は〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟(注①)とするのですが、その大前提となるのが『三国志』が漢代の里単位「長里」(一里約400m強)により里程記事が書かれているとする解釈です。これで倭人伝などの里程記事が問題なく読めるのであればまだしも、実際の距離とは5~6倍近く異なるため、諸説が出されてきたのですから、研究者として魏代の里単位が何メートルなのかを確認する作業が不可欠なはずです。しかし、仁藤氏の論文や著書にはその作業がなされた形跡が見えません。

 他方、古田武彦氏は〝単位問題では、いつでも、「その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。」〟(注②)として、『三国志』に書かれている里程記事を調査して、実際の距離との比較により、一里を「七五~九〇メートルで七五メートルに近い値」とする短里説を提唱しました。なお、谷本茂さんによる『周髀算経』の研究(注③)により、短里は一里76~77mであることが有力となりました。長里は一里435mとされています。具体的には次のような史料根拠と計算に基づいています。古田先生があげた多数の例から一部を紹介します。

○(一大国)方三百里なる可し。〔魏志倭人伝〕
壱岐島は約20kmの正方形内に収まり、短里では概略妥当であり、長里ではまったく妥当しない。ちなみに、魏の張政が軍事司令官(塞曹掾史)として二十年間倭国に滞在していたことが知られている。その軍事報告に基づいて倭人伝は記されていると考えられ、小島の壱岐島を五~六倍(面積比で二五~三六倍)の大きな島と張政が見間違うはずがない。
○(韓)方四千里。〔魏志韓伝〕
韓半島の南辺約300km÷4000里=約75m。東夷伝中の韓伝で短里が使用されている例。
○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。
○北軍を去ること二里余、同時発火す。〔呉志周瑜伝〕
周瑜伝裴注に江表伝が引文されている。その赤壁の戦の描写中にこの記事がある。呉の軍船が揚子江の中江に至って「降服」を叫んだのち、「二里余」に至って発火した。この赤壁の川幅は約400~500mであり、短里なら適切だが、長里ではとうてい妥当しない。公表伝は西晋の虞薄の著作であるから、『三国志』と同じく、短里で書かれていたことが判明する。

 以上のように『三国志』は魏・西晋朝の公認里単位「短里」で書かれており、当然のこととして倭人伝の里程記事も短里で読むべきです(注④)。したがって、郡(帯方郡)から倭国の都までの総里程「万二千余里」も短里であり、その到着点は博多湾岸(筑前中域)となります。他方、当地は「弥生銀座」と称されているように、弥生時代の鉄器、漢式鏡の列島内最多出土地で、最大の都市遺跡比恵那珂遺跡群(福岡市博多区・他)もあります。短里による行程理解と考古学出土物の双方が、倭国の都として同じ地点を指し示しているのです。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。
③谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』177号、1978年。
④「古田史学の会」研究者により、『三国志』内に長里が使用されている例が発見されている。『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年)を参照されたい。