2025年04月22日一覧

第3476話 2025/04/22

文献史学と考古学の〝もたれあい〟

 ―「邪馬台国」畿内説の真相―

 先日、 「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。5月例会の会場は大阪市立中央会館です。

 今回も活発な討論・意見交換が繰り広げられました。関西例会ならではの光景です。このようにして学問は深化発展するのだと思います。わたしたちは、一元史観や権威(古田先生をも含む)におもねるような発表ではなく、〝師の説にな、なづみそ(本居宣長)〟を実践しています(注①)。もっとも、〝古田説にはなづまず、一元史観になづむ〟ような言動は考えものですが。

 正木さんの発表「邪馬壹国の王都」は、久住猛雄さん(福岡市埋蔵文化財センター)による、列島内最大規模の比恵那珂遺跡(弥生時代~古墳時代前期)の調査報告(注②)を紹介し、邪馬壹国博多湾岸説の考古学的根拠とするもので、わかりやすく印象的な内容でした。特に、同遺跡(環濠を持つ)の規模が吉野ヶ里遺跡の四倍であること、その南方には卑弥呼の墓があったと考えられている須久岡本遺跡群(注③)が広がっていることなど、この地をおいて、日本のどこに邪馬壹国があったとするのかと、改めて確信を深めました。

 質疑応答の際、「畿内説は何を根拠にして小規模な纏向遺跡や時代が異なる箸墓古墳を「邪馬台国」とするのか」という主旨の質問が出されました。とても重要な質問と思い、わたしは次のような学界の実体を説明しました。

〝この二十年ほど、わたしは畿内説の文献史学や考古学の研究者に会えば、次のような質問を繰り返してきました。「邪馬台国を畿内とする根拠を教えて下さい」。そして得られた回答はほぼ次のようなものでした。

〔文献史学者の意見〕「文献(倭人伝)の記述からは邪馬台国の位置は不明だが、考古学ではヤマトの纏向としていることから、畿内説が最有力と考えている」〟(注④)

〔考古学者の意見〕「考古学では邪馬台国の位置はわからないが、文献史学によれば畿内説で決まりとのことなので、纏向遺跡が該当すると考えている」

 この両者の主張からわかったことは、「邪馬台国」畿内説は〝文献史学と考古学のもたれあい〟、自説の根拠を互いに他の分野の見解に基づくとする「根拠なき“有力”説」であったことです。これでは〝学問の癒着構造〟とでも言われそうです。

 本来であれば、文献史学なら史料事実(倭人伝)を、考古学なら出土事実(弥生遺跡・遺物)をもって自説の根拠とすべきです。あるいは、自らの学問領域ではわからないのであれば、「邪馬台国の位置は不明」と言うべきです。そのうえで、別々の根拠とそれぞれの方法によって成立した両者の仮説(「邪馬台国」の位置)が一致すれば、その仮説はより有力となり、多くの人々の支持を得て、通説に至るのが真っ当な学問の道筋(道理)です。そうはなっていない日本の古代史学界は何かがおかしい。〟

 この学界の状況に対して、「否」の声を上げ、邪馬壹国博多湾岸説を唱えたのが古田武彦先生でした(注⑤)。そして、その学説(多元史観・九州王朝説)や学問精神をわたしたち「古田史学の会」は受け継いでいます。こうした関西例会での歯に衣を着せぬ論議を聞くたびに、三十年前、「古田史学の会」を創設してよかったと思います。

 今月から上田武さん(古田史学の会・事務局)が司会を担当。永年、司会を担当していただいた西村秀己さん(古田史学の会・会計、高松市)に感謝します。なお、当面の発表申請窓口は引き続き西村さんが担当しますので、お間違えなきようお願いします。

 4月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔4月度関西例会の内容〕
①応神帝 (記・応神帝譜に載る人々) (大阪市・西井健一郎)

②九州にいた卑弥呼が手にした初期三角縁神獣鏡 (大山崎町・大原重雄)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

③古代日本の三国時代 ―蝦夷国の基礎的研究― (京都市・古賀達也)
https://youtu.be/EoDQ3CpDKu0

④百済三書の信憑性について (茨木市・満田正賢)
https://youtu.be/KlZsJrX7JKU

⑤邪馬壹国の王都 (川西市・正木 裕)
https://youtu.be/bgxvyw9Ild4

⑥「倭王の東進」と「神武神話」 (東大阪市・萩野秀公)

◎会務報告 (古賀達也)
❶6/22会員総会・記念講演会の案内
❷「列島の古代と風土記」特価販売(2200円、税・送料をサービス)の案内
❸その他。

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
05/17(土) 10:00~17:00 会場 大阪市立中央会館
06/21(土) 10:00~17:00 会場 東成区民センター

(注)
①〝本居宣長の「師の説にな、なづみそ」は学問の金言である〟と古田武彦氏は語っていた。
②久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。他。
③古田武彦「邪馬壹国の原点」『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1978年。
古賀達也「筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王―」『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、明石書店、2025年)
④仁藤敦史氏は『卑弥呼と台与』(山川出版社、2009年)、「倭国の成立と東アジア」(『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年)で、次のように畿内説の根拠を述べている。
「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)
「前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁」
⑤邪馬壹国博多湾岸説は、短里説(一里76メートル)による帯方郡から邪馬壹国までの総里程一万二千余里の到着地が博多湾岸であるとする文献史学の仮説、筑前中域が弥生時代の金属器(青銅器・鉄器等)と漢式銅鏡の出土数が国内最多であり、ヤマトよりも圧倒的に多いという考古学の出土事実により成立している。

【写真】比恵那珂遺跡群地図と比恵遺跡