2025年04月一覧

第3468話 2025/04/07

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (7)

 ―『穆天子伝』の部分里程と総里程―

 倭人伝のように部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先例『穆天子伝』を古田先生は見いだしました。同書は西晋朝のときに周墓から発見され、それは陳寿と同時代のことです。篆書で書かれた大量の竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わり、翻訳された『穆天子伝』を陳寿は読んだことでしょう。

 その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき叙述法が採用されていました。それは『穆天子伝』巻四に見える、穆天子西域巡幸の行路里程記事で、宗周から西王母の邦を経て大曠原に至り、周に帰還するまでの叙述です。そこに記された部分行路里程と総里程「各行兼数」の概略は次のようです(注)。

《『穆天子伝』巻四 西域巡幸の行路里数》
❶宗周のてん水より以て西し、河宗の邦・陽紆の山に至る 3400里
❷陽紆の西より西夏氏に至る 2500里
❸西夏より珠余氏に至り河首に及ぶ 1500里
❹河首の襄山より以て西南し、舂山の珠澤・崑崙の丘に至る 700里
❺舂山より以て西し、赤烏氏の舂山に至り 300里
❻東北、還りて羣玉の山截・舂山以北に至る ※里数値なし《700里》
❼羣玉の山より以て西し、西王母の邦に至る 3000里
※❻と❼は一文節。
❽(□)西王母の邦の北より曠原の野・飛鳥の其の羽を解く所に至る 1900里
❾(□)宗周、西北の大曠原に至る 14000里
❿乃ち還りて東南し、復び陽紆に至る 7000里
⓫還りて周に帰すること (3000里) ※周地に入ってからの行路であり、集計から除外してあるものと、見られる。
⓬各行兼数 35000里 ※「各行兼数」とは総里程のこと。

 ここに記された部分里程❶~❿の合計は34300里であり、総里程「各行兼数」35000里に700里足りません。そこで古田先生は行程記事を精査し、記された方角から見て、❹(西南へ700里)❺(西へ300里)❻(東北へ・無記載)が平行四辺形の3辺であり、そのため同数になる対面する2辺の里数の内、後の700里を「還りて~至る」として表現し(則地叙述法)、里数記載を省略したとしました(簡約叙述法)。これにより、部分里程の総和が総里程となったわけです。

 この則地叙述法と簡約叙述法が『穆天子伝』に採用され、それをお手本にして陳寿は『三国志』倭人伝を叙述したと古田先生はされました。それは公理(理性の鉄則)〝部分里程の総和は総里程〟を貫かれたことにより到達した仮説です。その際、現代人の認識や自説に基づく原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を「否」とする、古田先生の学問の方法が一貫していたことを忘れてはならないでしょう。

 なお、必要にして十分な論証抜きでの原文改定(研究不正)、原文無視(思考停止)を排して、〝部分里程の総和は総里程〟が成立する古田説とは異なる解釈や仮説が新たに発表されれば、それも有力仮説の一つとして検証・評価しなければならないこと、言うまでもありません。(つづく)

(注)古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』(駸々堂、1991年)による。

〔補記〕
茂山憲史氏(『古代に真実を求めて』編集部)より、古田先生の❻の訓みについて疑義が出され、次の読み下しが提起されたので紹介する。古田先生に書簡でこの読解を提案されていたとのことである。
「東北、羣玉の山に還り至るに、舂山以北を截(き)る。」
「中国哲学書電子化計画」(WEB)には句読点が次のように付され、茂山氏の訓みと対応している。
「東北還至于羣玉之山、截舂山以北。」


第3467話 2025/04/06

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (6)

―『穆天子伝』の発見―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて史書編纂者は記し、それを献上された天子を筆頭に官僚や読者もそのように理解するはずだとする、古田先生の学問の方法は、文献史学やフィロロギーでは極めて常識的なものです。その一点にこだわり抜いたことにより、古田先生は倭人伝の行路里程に記された対海国と一大国の島内陸行(島巡り半周読法)に相当する計千四百里を部分里程に含めると、部分里程の総和が総里程「万二千余里」になることを発見したわけです。

 他方、倭人伝の文面には「千四百里」という里数値が直接的に記載されているわけではないため、このような間接的に里程を読み取らなければならないような先行史料(先例)の提示は当初はできていませんでした。そのため、〝魏使が、島を半周して測った証拠がないにも拘わらず「島を半周して測ったことにすれば、総和が12000里になる」と主張するのは論理的・科学的ではない〟という批判が出されることになったものと思われます。

 しかしながら、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)は『三国志』編纂当時も現代も周知のことであり、陳寿もそのことをわかった上で帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を行路記事中に書き続け、そして総里程も記してたわけです。ですから、部分里程が「千四百里」足らなければ、行路記事中のどこかに足し忘れた里程があるのではないかと考え続けたのが古田先生で、その他の論者はそのことについて〝思考停止〟してきたのが、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟論争でした。

 そのような状況が二十年ほど続いた後に、倭人伝と同様に、部分里程の総和が総里程にならないかのように見える先行史料(先例)を古田先生は見いだしました。それが『穆天子伝』(五巻)です。同書は周の第五代の天子、穆(ぼく)王の業績を記した本で、三世紀、西晋朝のときに周の戦国期の王墓から発見されました。『三国志』の著者、陳寿の時代です。同墓から「数十車」にものぼる「竹書(竹簡)」が発掘され、その中に有名な『竹書紀年』と共に、『穆天子伝』もありました。先秦の文字(篆書)で書かれた竹簡の文字を解読し、当時の文字(今文)に翻訳する作業が、西晋朝による一大プロジェクトとしてなされ、それに陳寿も加わっていたことを疑えません、少なくとも翻訳完成した『穆天子伝』を陳寿は西晋の史官として読んでいたと考えるべきでしょう。その『穆天子伝』の行路里程記事に倭人伝の先例ともいうべき記述法が採用されていたのです。(つづく)


第3466話 2025/04/05

『東京古田会ニュース』221号の紹介

 『東京古田会ニュース』221号が届きました。拙稿「蝦夷国「会津高寺」への仏教伝来」を掲載していただきました。同稿は、近年わたしが取り組んでいるテーマ「古代日本列島の三国時代」、すなわち倭国(九州王朝)、日本国(大和朝廷)と蝦夷国(日高見国)の三国鼎立という多元史観研究の一環として、九州王朝から蝦夷国への仏教伝来史料を紹介したものです。

 残念なことに、多元史観・九州王朝説を支持する古田学派に於いても蝦夷国研究は他の二国と比べて研究が遅れており、中には七世紀段階でも律令制国家の倭国や近畿天皇家よりも、蝦夷国を一段と劣る〝部族連合〟のような捉え方をする論者も見かけます。これは学界にはびこる一元史観の延長で蝦夷国を捉えたものであり、やはり蝦夷国に対しても多元史観による実証的な研究が必要です。この取り組みの一つとして、仏教受容という切り口で蝦夷国の実体に迫りたいと思い、同稿を著したものです。

 『東京古田会ニュース』には他紙には見られない特徴的な連載があります。同会々長の安彦克己さんによる「和田家文書備忘録」です。当号で11回目を迎え、今回のテーマは「安東船と宗任」。宗任(むねとう)とは安倍宗任のことで、前九年の役で敗れた安倍貞任と息子の千代童丸は自刃し、宗任は九州に流されます。わたしも三十年前に和田家文書に記された宗任配流記事と九州に遺っている宗任伝承の一致について論文を書いたことがあり、とても懐かしいテーマです。

 このような和田家文書に記された記事について、安彦さんは備忘録として連載しています。こうした基礎研究に当たる作業は、後学による和田家文書研究に大いに役立つことと思います。5月末頃に八幡書店から刊行が予定されている『東日流外三郡誌の逆襲』にも安彦さんの下記の研究論文が収録されます。

第四部 和田家文書から見える世界 扉
第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って—

 同書や会紙の安彦さんの論考により、和田家文書研究が大きく前進することを願っています。


第3465話 2025/04/04

倭人伝「万二千余里」のフィロロギー (5)

 ―部分里程の総和は総里程―

 史書に見える行路里程について、〝部分里程の総和は総里程〟とする公理(理性の鉄則)に基づいて著者は記し、読者もそのように理解するはずだという、文献史学とフィロロギーの基本認識(学問の方法)を古田先生は尊重し、それまでどの論者も成し得なかった倭人伝の総里程「万二千余里」と一致する部分里程を初めて明らかにしました。そして、その先例である『史記』大宛列伝の里程記事中の〝漢から大夏までの里程〟を紹介しました(注①)。当該部分は次のようです。

❶ 大宛(だいえん)は漢の正西に在り。漢を去る、万里なる可し。
❷ 大夏は大宛の西南二千余里に在り。
❸ 大夏は漢を去る、万二千里。漢の西南に居す。

 漢から大宛を経て大夏に至る里程記事で、❶「万里」+❷「二千余里」=❸「万二千里」とあり、部分里程の和が総里程となっています。このケースは部分里程が具体的に記されて、総里程との一致が単純計算で得られますが、倭人伝では対海国「方四百里」と一大国「方三百里」とある数値に基づく「島巡り半周読法」という解釈に至ることが簡単ではありませんでした。

 しかしながら、倭人伝には対海国と一大国の様子を次のように記載(報告)しており、島内の「道路如禽鹿徑」を陸行したことを表しています。この陸行の「距離」を陳寿は「方四百里」「方三百里」から算出し、それを加えて総里程「万二千余里」にしたのではないかと古田先生だけが気づいたのです。

【対海国】「方可四百餘里。土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田食海物自活、乖船南北市糴。」
【一大国】「方可三百里、多竹木叢林、有三千許家。差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。」

 この「島巡り半周読法」という仮説を導入することにより、倭人伝の部分里程の総和が総里程「万二千余里」に一致し、魏西晋朝短里説(1里=約76m)とあわせることにより、邪馬壹国博多湾岸説が成立しました。この古田説は〝部分の総和は全体〟という公理(理性の鉄則)に適った初めてで唯一の説であり、古田武彦以前の〝全国「邪馬台国」探し〟とは異次元の学問レベルに達したもので、多くの古代史ファンや研究者の支持を得たことはご存じの通りです。

 他方、〝部分の総和が総里程にならなくてもよい〟と、明言はせずとも事実上そうしてきた従来説は説得力を失いました。しかし、古田説発表後も、日本古代史学界、特に畿内説論者からはこの公理(理性の鉄則)は無視されてきました。このような学界の状況を古田先生は嘆き、次のように注意喚起しています(注②)。

〝汗牛充棟の名をほしいままにすべき、わが国の倭人伝研究の中に、瞠目すべき一大欠落が存在する。それは次の一点の点検である。
「帯方郡より女王国に至る総里程(一万二千余里)と、各部分里程の総和が一致しているか否か」

 およそ“部分を足せば、全体になる”とは、贅言(ぜいげん)するまでもなく、古今不動の通軌にして理性の鉄則である。とすれば、倭人伝内に多くの部分里程が頻出すると共に、他面、帯方郡治と女王国の間の総里程が銘記されている以上、右の通軌・鉄則に照らして、必ず倭人伝内の文章を点検すべきこと、他のあらゆる揣摩(しま)憶測の諸説に奔る前に、先ず通過すべき学問的関門でなければならぬ。

 しかるに従来の諸氏万家、これを怠り、いたずらに中心国(邪馬壹国。諸家のいわゆる「邪馬台国」)の帰趨すべき到達点の論議にのみ焦点を求めてきたのは、学問の方法上、きわめたる遺憾の一事という他はなかったのである。
それゆえ筆者は、倭人伝内の中心国の所在を求めるにさいし、この一点の検証を出発点としたのであった。

 論文「続、邪馬壹国」及び『「邪馬台国」はなかった』における所論がそれである。しかるに、爾来、二十年。他の分野、たとえば「国名」問題、「里単位(短里)」問題等においては、幸いにも幾多の反論に恵まれたにもかかわらず、この枢要の一点に関しては、ほとんど反論に会わず、しかも学界がこれを“受け容れた”形跡もなく、不可解なる二十年を経験してきたのであった。

 今回、当問題のもつ不可避の論理性を“裏書き”する重要な新史料に遭遇した。よって江湖にこれを率直に報告し、学界の真摯なる注意を喚起したいと思い、この一文を草するのである。〟『九州王朝の歴史学』9~10頁。

 この古田先生が遭遇した重要な新史料とは『穆天子伝』のことです。(つづく)

(注)
①古田武彦『倭人伝を徹底して読む』大阪書籍、1987年。
②古田武彦「部分と全体の論理 ――「穆天子伝」の再発見」『九州王朝の歴史学 多元的世界への出発』駸々堂、1991年。


第3464話 2025/04/01

『東日流外三郡誌の逆襲』編集大詰め

八幡書店で進められている『東日流外三郡誌の逆襲』の編集作業が大詰めを迎えています。このところ毎晩遅くまで同社の武田社長と編集の打ち合わせと原稿の改定に追われています。順調に進めば5月末頃には発行できるとのことです。

同書の構成については八幡書店のアドバイスを尊重し、次のように改めることになりました。執筆者の皆様にはご理解の程、お願い申し上げます。引き続き、調整や修正があるかもしれませんが、出版のプロのご意見だけに、わたしが提案した当初の章立てよりもかなり読みやすくなっています。出版までもう一息です。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがきに相当(目次の前)
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ 扉

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々 扉

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を証言する人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証 扉

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 令和の「和田家文書」調査 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物 扉

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界 扉

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞 ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也