宮城県の九州年号
金石文(「善喜二年」鰐口銘)の史料
『市民の古代』11集(注①)に収録された『仙台金石志』の次の九州年号金石文記事の「善喜二年」銘鰐口が所在不明であることが菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)の調査によりわかりました。
「舊鰐口二噐其一銘曰。善喜二年三月日(鰐口銘文)」
『仙台金石志』巻之十二 封内名蹟志巻十五
宮城県栗原郡二迫屋敷村八所権現
そこで出典とされた『仙台金石志』を調査しました。岡崎公園の京都府立図書館で国会図書館デジタルアーカイブを閲覧したのですが、『仙台叢書』に収録された『仙台金石志』(注②)に当該記事を見つけることができませんでした。わたしの見落としかもしれず、三度ほど読みましたがそれらしい記事は見えません。版本により、内容が異なっているのかもしれません。そこで、『封内名蹟志』(注③)を調べたところ、次の記事がありました。
「八所權現。稲屋敷村に有。
郷人高松權現と云ふ。往古寺有。春日山高松寺と號す。古鰐口二器あり。其一の銘に曰く。善喜二年三月日とあり。其二の銘に。鰐口一器。陸奥長岡郡荒谷郷。安養寺に寄附す。時に寛正三年壬午二月二十四日。願主常徳とあり。
按るに。善喜といへる年號見へず。喜の字を下に用ひしは。醍醐帝の延喜。後冷泉帝の天喜。後堀河帝の寛喜等にして。此の外にはなし。寛正は。百三代御(ママ)花園帝の三十四年也。此銘を以て見れば。栗原は、則古の長岡郡なることを知るにたれり。」『封内名蹟志』粟原郡(『仙台叢書』第八巻 336頁)
この『封内名蹟志』は仙台藩の佐藤信要(ノブアキ)が1741年に編纂したもので、『奥羽観蹟聞老志』の誤謬を訂正し、記事を簡潔にしたものとされています。そこで『奥羽観蹟聞老志』(注④)も閲覧したところ、栗原郡「八所權現」に『封内名蹟志』とほぼ同内容の漢文体の次の記事がありました。
「八所ノ權現
在稲敷村平形ノ地 有寺號春日山高松寺 有古鰐口二器 其一ノ銘ニ曰 善喜二年三月日 其二ノ銘ニ曰 寄附ス鰐口一器ヲ 於陸奥長岡郡荒谷郷安養寺 時寛正三年壬午二月二十四日願主常徳
按ニ善喜ノ年號不見 用喜ノ字ヲ于下者ハ七十代後冷泉帝天喜外無有之 寛正ハ百三代後花園帝三十四年也 依此銘而會テ知ル 此地乃古之長岡郡也 然ハ則此時未タ収村落 猶立郡名也 高松寺後称安養寺乎 又其寺在荒谷 而適以此器而蔵此寺者乎」『奥羽観蹟聞老志』巻之八(『仙台叢書』第十四巻 339頁)
ここでは、喜の字を用いた年号を「後冷泉帝天喜外無有之」としていますが、先の『封内名蹟志』では延喜と寛喜をつけ加えています。しかし、両書とも「善喜」という年号は見えないとしています。他方、善の字については何も触れておらず、その理由がわかりません。いずれにしても、両書が成立した十八世紀時点では、「善喜二年三月日」の銘文を持つ古い鰐口が八所権現に存在していたと記しています。(つづく)
(注)
①『市民の古代』11集、新泉社、1989年。
②吉田友好『仙台金石志』享保四年(1719年)、『仙台叢書』に収録。
③佐藤信要『封内名蹟志』、1741年。同書は『奥羽観蹟聞老志』の誤謬を訂正し、記事を簡潔にしたもの。『仙台叢書』第八巻には漢文から国字に改めたものが収められている。
④『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の儒学者、佐久間洞巌(1653-1736)が四代藩主伊達綱村の命により編纂し、1719年に完成した。全20巻からなる仙台藩内および東北の地誌。『仙台叢書』第十四巻に収録。