第940話 2015/05/01

九州王朝滅亡の一因を考える

 このゴールデンウィークを利用して、家族で実家の久留米市に帰りました。今回は、博多から久留米までは鹿児島本線の在来線快速を利用しましたので、今までよりもしっかりと沿線の風景を眺めることができました。
 宝満山(御笠山)や大野城がある大城山の懐かしい遠景ですが、今回は今までにない視点で大野城を凝視しました。というのも、正木裕さんにより、大野城が 『日本書紀』斉明紀2年条に見える「田身嶺に冠しむるに周れる垣を以てす。復た嶺の上の両の槻の樹の辺に観(楼閣・たかどの)を起つ。号(なづ)けて両槻宮とす。亦は天宮と曰ふ。」の「田身嶺」であるとする新説が発表されていたからです。たしかに大野城はその規模といい、内部の施設や水源の豊富さなどから、太宰府(倭京)の住民が籠城できるように造営されています。
 今回の帰省で改めて実見したのですが、そうした視点で大野城をとらえたとき、確かにその規模は尋常ではありません。恐らく、隋や唐からの侵略に備え、「国家総動員」で造営されたことを疑えません。そのとき、造営に参加した多くの住民も、この城があれば大丈夫と信じ、九州王朝の天子の命に従ったはずです。「いやいや」では、あれだけの防衛施設を長期にわたり造れないと思うのです。
 侵略者が博多湾に上陸し、水城を突破し、太宰府に侵攻できたとしても、住民ともども大野城に籠城され、その後、夜討ち朝駆けといった九州王朝軍の反撃に対して、見知らぬ地域に侵攻した他国の軍隊は兵站も延びきっており、長期戦に耐えられるとは到底思えません。しかも、安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)の研究によれば、『日本書紀』天智紀に見える唐の筑紫進駐軍2000名の内、その多くは船団を操る「送使団」であり、実戦部隊としての軍隊は600名ほどではなかったかとのこと。敵地で戦い続け、軍事制圧するにはあまりにも少人数と言わざるを得ません。
 しかし、歴史事実として九州王朝は滅びました。何故でしょうか。このことを車窓から大野城を眺めながら、わたしは考え続けました。九州王朝を滅ぼした主体が唐であれ、近畿天皇家であれ、なぜ九州王朝は水城や神籠石山城、そして大野城に立てこもって徹底抗戦しなかったのでしょうか。水城も壊されていませんし、太宰府政庁2期の宮殿も701年の 王朝交替期に焼かれていません。明治維新の江戸城と同様に「無血開城」したかのようです。(つづく)

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