「正税帳」に見える「番匠」「匠丁」
吉村八洲男さん(古田史学の会・会員、上田市)による、上田市に遺る神科条里と当地に遺存する「番匠」地名の研究(注①)に触発され、古代史料中の「番匠」記事を調べましたので紹介します。
『寧楽遺文 上』(注②)を精査したところ、次の「番匠」とその構成員である「匠丁」を見いだしました。
○尾張國正税帳 天平六年(734年)
「番匠壹拾捌人、起正月一日盡十二月卅日、合參伯伍拾伍日 單陸阡參伯玖拾人」
○駿河國正税帳 天平十年(738年)
「匠丁宍人部身麿從 六郡別半日食爲單參日從」
○但馬國正税帳 天平十年(738年)
「番匠丁粮米壹伯陸斛肆斗 充稲貳仟壹伯貳拾捌束」
「匠丁十二人、起正月一日迄九月廿九日、合二百六十五日、單三千百八十日、食料米六十三斛六斗、人別二升」
○出雲國計會帳 天平六年(734年)
「 一二日進上下番匠丁幷粮代絲價大税等數注事」
「三月
一六日進上仕丁厮火頭匠丁雇民等貳拾陸人逃亡事
右差秋鹿郡人日下部味麻充部領進上、」
「四月
一八日進上匠丁三上部羊等參人逃亡替事
右差秋鹿郡人額田部首眞咋充部領進上、」
これらの記事によれば、尾張国・駿河国・但馬国・出雲国から都(平城京)へ「番匠」「匠丁」が送られたことがわかります。都でどのような工事に携わったのかは未調査です。
「番匠」の最初が九州年号の常色二年(648年)頃であったとする記事「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」が『伊予三島縁起』に見えます(注③)。九州年号の白雉元年(652年)に大規模な前期難波宮が完成していることから、このときの番匠は難波に向かい、九州王朝の複都難波宮の造営に携わったと考えられます。こうした九州王朝による「番匠」制度を大和朝廷も採用したのであり、その痕跡が上記史料に遺されていたわけです。
(注)
①吉川八洲男「神科条里と番匠」多元的古代研究会主催「古代史の会」、2022年10月。
②竹内理三編『寧楽遺文 上』昭和37年版。
③正木裕「常色の宗教改革」『古田史学会報』85号、2008年。