秋田孝季の父、橘左近の痕跡調査(1)
『東日流外三郡誌』を編纂した秋田孝季や和田長三郎吉次の実在を否定するという偽作論者の主張に対して、古田先生とわたしは津軽行脚を続け、両者の痕跡を探し続けました。和田長三郎吉次の痕跡は幸運にも恵まれて、わりと早く見つけることができました(注①)。
五所川原市飯詰の和田家菩提寺、長円寺に和田家の墓石(文政十二年・1829年建立。注②)と過去帳があり、過去帳(原本は火災で焼失。五所川原市教育委員会によるコピー版によった)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致していました。「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、長円寺や和田家がある旧地域名。「長三郎」は喪主。和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からすると和田吉次に相当します。同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致することを確認できました。
その後、もう一人の編者、秋田孝季実在の痕跡調査を行いましたが、こちらはまだ進んでいません。そこで、孝季の父親「橘左近」(注③)の痕跡調査を始めました。和田家文書によれば橘左近は長崎出島でオランダ通詞を勤めていたとありますので、その方面から実在を確認できないかと考えてきました。しかし、長崎まで行っての調査は容易ではありません。しかも、現地のどこにどのような史料があり、閲覧が可能かさえも簡単にはわかりません。そうしたとき、力強い助っ人が現れました。中村秀美さん(古田史学の会・会員、長崎市)です。(つづく)
(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3036話(2023/06/09)〝実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―〟
②墓石には次の文が見える。()内は古賀注。
〔表面〕
「慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)」
〔裏面〕
「文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏」
壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑であろう。
③『和田家資料4 北斗抄』p.477~478の「孝季系譜」による。
参考 令和5年(2023)2月18日 古田史学会関西例会