九州王朝の中国風一字名称
九州王朝(倭国)において、中国風一字名称を倭王が持っていたことを古田先生が指摘されています。たとえば、『三国志』倭人伝に見える倭女王の壹与(3世紀)の「与」や、『宋書』倭国伝に見える「倭の五王」の「讃・珍・済・興・武」(5世紀)などです。
『隋書』「俀(タイ)国伝」に見える太子の利歌彌多弗利(利、カミトウの利、7世紀)の「利」も中国風一字名称ではないでしょうか。古代日本において、「ら行」で始まる名詞(和語)はないことから、この「利」は中国風一字名称と考えざるを得ません。漢語であれば「蘭」や「猟師」などが使われていますから、「利」も中国風一字(漢語)名称と思われるのです。
以上のように、倭国では少なくとも3世紀から7世紀において中国風一字名称を名乗っていたと考えられます。他方、近畿天皇家の「天皇」には中国風一字名称が記紀には見えません。『日本書紀』成立後に付加された死後の謚(おくり名)の漢風諡号はありますが、この漢風諡号(神武・斉明・天武など)は二字ですから、九州王朝の一字名称とは異なりますし、後代(『日本書紀』成立後)に付けられた謚ですから、神武や斉明たちが生きているときの自称ではありません。
九州王朝の天子や倭王の死後の謚については史料がありませんので、どのようなものかは判断できませんし、学問的に論じることも現状では困難です。今後の研究課題です。