第3138話 2023/10/17

七世紀の都城の朱雀大路の幅

八王子セミナー(11月11~12日、注①)に備えて藤原宮(京)研究を続け、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注②)。そのなかで注目したのが、王宮を起点として南北にはしる朱雀大路の幅の比較です。各条坊都市の道路幅を本稿末尾に掲載しました(調査途中)。朱雀大路の幅は次の通りです。

□朱雀大路幅
【前期難波宮】(652年創建) 側溝芯々間 約33m
【大宰府政庁Ⅱ期】(670年頃。通説では八世紀初頭) 路面幅 約36m  側溝芯々間 約37.8m
【藤原京】(694年に遷都) 側溝芯々間 24m
※藤原宮下層朱雀大路部分 16~17m
※右郭二坊大路(長谷田土壇) 16~17m
【平城京】(710年に遷都) 路面幅か 約75m

わたしが九州王朝の東西の王都(両京制)と考える前期難波宮(652年)と大宰府政庁Ⅱ期(670年頃)の朱雀大路幅(側溝芯々間距離)は約33mと約37.8mであり、時代と共に拡大しますが、その後に創建された藤原宮(694年遷都)は24mであり、縮小します。ところが王朝交代後の大和朝廷の平城京は約75mと最大化しています。

このことから、近畿天皇家が朱雀大路の規模に無関心であったとは考えられません。しかし、王朝交代直前に造営した藤原宮(大宮土壇)は当時最大規模の王宮でありながら、朱雀大路は前期難波宮(約33m)よりも太宰府条坊都市(約37.8m)よりもかなり小さめの24mです。

この出土事実が何を意味し、王朝交代に関する諸仮説のなかで、どの仮説と最も整合するのかを検証することにより、より優れた仮説が明らかとなり、いずれその方向に王朝交代研究が収斂するのではないでしょうか。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」3129~3134話(2023/10/02~07)〝藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)~(五)〟

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
□朱雀大路幅 約33m
□西二路(大路)の幅が約14m

【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃。通説では八世紀初頭)
□朱雀大路(路面幅) 約36m  (側溝芯々間)約37.8m
□条坊南端の二十二条大路(路面幅) 約8m (側溝芯々間)約10m

【藤原京道路幅】(694年に遷都) 側溝芯々間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中間にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

【平城京道路幅】(710年に遷都)
□朱雀大路 約75m

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