難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (3)
山根徳太郎著『難波の宮』(学生社、昭和39年)によれば、難波宮の位置について、山根徳太郎さんは学問的に有力な批判に苦しんでいたことがわかります。それは、難波宮を大阪市北区の長柄豊崎にあったとする、現存(遺存)地名を根拠とする批判でした。この説は、喜田貞吉氏の名著『帝都』に「難波長柄豊碕ノ宮と申す。今の豊崎村大字南北長柄は、実に其の名を伝へて居るもの」とあり、当時の学界では最有力説だったようです。私財や寄附金も投入して法円坂の発掘を続けていた山根氏に対して、「あんな所に長柄豊碕の宮があろうはずはない。長柄は明瞭に天満の北で、長柄村の名は古い。人柱で名高いナガラを法円坂町にもっていくなどはムチャだ」という批判も寄せられていました。
この批判は文献史学の視点によれば、『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿名「難波長柄豊碕宮」を史料根拠として、それが現存地名の「長柄村豊崎」(大阪市北区)と対応し、その地の方が狭隘な上町台地よりも広く、王都王宮の地に相応しいとする、極めて常識的で合理的な判断により論証が成立しています。そのため、論理的な反論が困難なため、山根徳太郎さんは発掘調査により法円坂から大型宮殿跡を検出するという、考古学の実証的な方法で反論に替えたのです。
実はこの考古学者としての信念は、若き日に見た上町台地出土の二枚の古瓦(重圏文丸瓦、蓮華文丸瓦)に支えられていました。この瓦は置塩章(おじおあきら)氏(陸軍技師)が発見したもので、その置塩氏の執念とも言える言葉が『難波の宮』冒頭に記されています。
「書かれた歴史が何だ、そんなものは昔から権力者がどのようにも書きかえができる。しかしこの瓦は、法円坂町の大地の数尺下層から出土してきた状態をこの眼でたしかに認めたのだ。これほど確かなものがあるか、いまの大阪は昔の難波、その難波の土地の地下から、この古瓦は出てきたのだ、これほど確かなものがあるか、いまさら商売替えも出来ないから、このまま七十の年までは建築家でとおし、そのあと考古学を勉強して、きっとこの瓦にものをいわせてみせる」18~19頁
戦後、続けられた山根さんの執念の発掘により、法円坂から鴟尾の発見を皮切りに、ついに大型宮殿跡(聖武天皇の大極殿跡など)、その下層からは別の宮殿跡(後に孝徳天皇の長柄豊碕宮とされた前期難波宮)が出土し、難波宮が上町台地法円坂に存在していたとする定説が成立しました。この圧倒的な考古学的実証により、文献史学の論証による長柄豊崎説は影を潜めていきます。しかし、真の問題はここから始まるのです。(つづく)