難波宮を発見した山根徳太郎氏の苦難 (5)
『日本書紀』孝徳紀に記された難波長柄豊碕宮を大阪市北区の長柄豊崎とした喜田貞吉氏の見解は、『日本書紀』の史料事実と現存地名との対応という文献史学の論証に基づいており、他方、山根徳太郎氏の上町台地法円坂説は考古学的出土事実により立証されました。なぜ、このように論証と実証の結果が異なったのでしょうか。ここに、近畿天皇家一元史観では解き難い問題の本質と矛盾があるのです。
結論から言えば、山根氏が発見した前期難波宮は『日本書紀』孝徳紀に書かれた「難波長柄豊碕宮」ではなく、九州王朝の王宮(難波宮)だったのです。その証拠の一つとして、法円坂から出土した聖武天皇の宮殿とされた後期難波宮は、『続日本紀』では一貫して「難波宮」と表記されており、「難波長柄豊碕宮」とはされていません。この史料事実は、法円坂の地は「難波長柄豊碕」という地名ではなかったことを示唆しています。このことについては、わたしが既に論じてきました(注①)。
そして、この結論が妥当であれば、孝徳天皇の宮殿「難波長柄豊碕宮」は、九州王朝の難波宮(前期難波宮)で執行された賀正礼に参加し、その日の内に帰還が可能な近隣にあったはずです(注②)。その「難波長柄豊碕宮」の最有力候補地こそ、大阪市北区に現存する豊崎町・長柄ではないでしょうか。そうであれば、喜田貞吉氏が論証した長柄豊崎説と山根徳太郎氏が発掘実証した上町台地法円坂説は相並び立つことができるのです。わたしは、孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」が北区の長柄豊崎にあったことを立証してみたいと考えています。(おわり)
(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」163話(2008/02/24)〝前期難波宮の名称〟
同「洛中洛外日記」175話(2008/05/12)〝再考、難波宮の名称〟
同「洛中洛外日記」1418話(2017/06/09)〝前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた〟
同「洛中洛外日記」1421話(2017/06/13)〝前期難波宮の難波宮説と味経宮説〟
同「白雉改元の宮殿 ―「賀正礼」の史料批判―」『古田史学会報』116号、2013年。『古代に真実を求めて』(17集、2014年)に再録。
②『日本書紀』白雉元年(650)と三年(652)の正月条に次の記事が見える。
「白雉元年の春正月の辛丑の朔に、車駕、味経宮に幸して、賀正礼を観る。(中略)是の日に、車駕宮に還りたまふ。」
「三年の春正月の己未の朔に、元日礼おわりて、車駕、大郡宮に幸す。」