第3331話 2024/08/05

藤原京から出土した日向久湯評木簡

 先月、多元的古代研究会のリモート古代史研究会で「九州王朝研究のエビデンス (3)木簡」を発表しました。思っていたよりも好評でした。そのエビデンスを更に拡充した内容で、今週末の「古田史学リモート勉強会」(古賀主宰)でも発表します。その為、奈良国立文化財研究所のデータベース「木簡庫」の精査をくり返し、九州王朝研究にとって重要な木簡をピックアップしていたところ、藤原京左京七条一坊西南坪から「日向久湯評」木簡(文書木簡)が出土していたことに気づきました。

 市大樹さんの名著『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)に収録された「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」によれば、飛鳥宮や藤原京から出土した7世紀(評制下)の荷札木簡には、九州諸国からのものは出土せず、この現象を九州王朝説でどのように解釈するのか注目されていますが、文書木簡としては「日向久湯評」木簡が恐らく一枚だけ出土していることを重視しています。この出土はたまたま偶然のことなのか、それとも日向国と藤原京(近畿天皇家)との深い関係があったことを示すものなのか、よく考えてみたいと思います。
同木簡の表裏の文字は次のように判読されています。

【藤原京左京七条一坊西南坪出土】
《表》○日向久湯評人□\○漆部佐俾支治奉牛卅\○又別平群部美支□
《裏》故是以○皆者亡賜而○偲

 木簡庫の解説では、表裏は同筆と見てよいとしていますが、その目的や背景がよくわかりません。とりわけ、裏面の意味するところが不明です。木簡庫の訓読によれば「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」とのことで、ただならぬ様子が窺えます。

【奈文研木簡庫の解説】
本木簡はSX五〇一南岸よりもやや南方で出土したが、土層の類似から便宜上SX五〇一出土木簡に含めた。上端・左右両辺削り。下端は表側から刃を入れて二次的に切断する。また、下端より約五〇㎜の位置には、表側に向かってへし折ろうとした痕跡が認められる。下端の切断と同様、やや左下がりとなっており、一連の措置の可能性が高い。表側は上端より約四〇㎜あけて文字を記すのに対して、裏側は上端からただちに文字を記す。表裏は同筆とみてよいが、内容的に関連するかどうかは不明。

 このほかにも、釈文には掲げなかったが、表側上部の余白には不明瞭ながら墨痕のような陰が認められ、削り残りの可能性もある。一行目の「日向久湯評」は『和名抄』日向国児湯郡に相当する。「久(く)」と「児(こ)」の通用は珍しくない。「人」字以下は下端の二次的切断にともなって剥離する。二行目の「佐俾支」は「サヒキ」と訓読できる。佐伯のことを「佐匹」(『評制下荷札木簡集成」二六・二三七号)や、「佐俾岐」(『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』)と表記した事例もあり、佐伯は「サヒキ」に近い音であったことがわかる。「治奉」は貢進の意で使用したものであろうか。「牛」は牛皮であろう。日向国は牛・馬の官牧が多く存在したことで著名。『日本書紀』持統三年(六八九)正月壬戌条には、筑紫大宰は隼人一七四人・布五〇常・鹿皮五〇枚とともに牛皮六枚を献上したとあり、平城宮東院の東南隅部では日向国から牛皮四枚を貢進した際の荷札木簡二点が出土している(『平城木簡概報六』六頁下)。牛皮三〇枚が宮城四隅疫神祭で幣帛として利用された可能性を含めて、検討を要する。三行目の「平群了」は、児湯郡に平群郷が存在することと関係しよう。一方、裏側は右端に一行分の記載しかなく、表側と異なって上端部から文字が記されている。「故ニ是ヲ以テ皆ハ亡クナリ賜ハリテ偲ビ…」と訓読するか。

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