『旧唐書』倭国伝の
「四面小島、五十餘国」
飛鳥・藤原跡から出土した七世紀後半(評制)の荷札木簡の献上国一覧については、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注①)。その献上国分布には従来の一元史観では説明し難い問題がありました。その最たるものが、周防国・伊予国よりも西側の国々、すなわち九州諸国からの荷札木簡が一点も見えないという出土事実です。従来説では、九州諸国の献上物(税など)は、一端、大宰府に集められたためと説明されているようです。しかしそれならば、大宰府からの荷札木簡があってもよいはずですが、飛鳥・藤原跡からは出土していません。他方、平城京跡からは大宰府からの荷札木簡が出土しています(注②)。
この荷札木簡の献上国の分布状況を知り、『旧唐書』倭国伝の記事と対応していることに気づきました。
【『旧唐書』倭国伝の冒頭】
「倭國者、古倭奴國也。去京師一萬四千里、在新羅東南大海中。依山島而居、東西五月行、南北三月行。世與中國通。其國、居無城郭、以木爲柵、以草爲屋。四面小島、五十餘國、皆附屬焉。」
「四面小島五十餘國、皆附屬焉」の一節は、倭国の周囲(四面)に小島と五十余国があり、皆倭国に附屬していると読めます。この五十余国とは、律令制の六十六国(年代により変化する)から九州島の九国と蝦夷国に相当する陸奥国を除いた国の数(五十六国)ではないでしょうか。なお、九州王朝(倭国)による六十六ヶ国分国については正木裕さんの研究がありますのでご参照ください(注③)。
この理解が正しければ、九州を除く五十余国は王朝交代直前の近畿天皇家の統治領域となり、『旧唐書』日本国伝に見える「日本舊小國、併倭國之地」の「地」であり、倭国全体を併合する王朝交代の歴史経緯の一局面を荷札木簡の分布は示しているのではないでしょうか。そして、「東界、北界有大山爲限、山外卽毛人之國」に見える毛人国は蝦夷国とする理解も成立しそうです。
このように同時代史料で自国出土の木簡を基本エビデンスとして、後代史料である中国史書の倭国伝などを理解するという学問の方法を改めて重視したいと思います。
(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2394話(2021/02/27)〝飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々〟
同「洛中洛外日記」2399話(2021/03/04)〝飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)〟
同「洛中洛外日記」3377話(2024/11/10)〝王朝交代前夜の天武天皇 (4)〟
②奈良文化財研究所HP「木簡庫」によれば、次の「大宰府」木簡が平城京跡から出土している。
○【木簡番号】0
【本文】・大宰府貢交易油三斗□□〔五升ヵ〕・○寶亀三年料
【遺跡名】平城京左京七条一坊十六坪東一坊大路西側溝
【遺構番号】SD6400 【国郡郷里】筑前国大宰府
【和暦】宝亀3年【西暦】772年
○【木簡番号】0
【本文】□□〔筑紫〕大宰進上筑前国嘉麻郡殖□〔種〕→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国嘉麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上筑前国穂波→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・筑前国穂浪郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上肥後国託麻郡…□子紫草
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】文書
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】←□〔紫〕大宰進上肥後国託麻郡殖種子紫→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・肥後国託麻郡
○【木簡番号】0
【本文】筑紫大宰進上薩麻国殖→
【遺跡名】平城京左京三条二坊八坪二条大路濠状遺構(南)
【遺構番号】SD5100 【内容分類】荷札
【国郡郷里】筑前国大宰府・薩摩国
③正木 裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号、2010年。
同「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。