第1204話 2016/06/07

大宰府政庁出土「須恵器杯B」の年代観

 『西都大宰府』に記されているように、大宰府政庁1期整地層から、従来7世紀第4四半期と編年されていた「須恵器杯B」が出土するということはかなり衝撃的なことです(Facebookに写真を掲載してます)。なぜなら、大和朝廷一元史観に立った通説でも大宰府政庁1期は天智の頃(660年前後)とされており、その下の整地層から出土した「須恵器杯B」は660年以前の土器となり、従来編年よりも20年ほど早くなるからです。
 もしこの「須恵器杯B」を従来通り7世紀第4四半期と編年してしまうと、大宰府政庁1期の堀立柱遺構も7世紀第4四半期以降となってしまい、白村江戦(663年)の10年以上も後に建てられたことになります。そうすると、通説でも665年頃に造営されたとするあの巨大な水城や大野城、基肄城は一体何を防衛していたのか、全くわけがわからなくなるのです。このように、大宰府政庁1期整地層から出土した「須恵器杯B」は一元史観の編年では数々の矛盾が生じ、理解不能となるのです。したがって、通説を維持する為にも「須恵器杯B」の編年を7世紀中頃以前にしなければなりません。前期難波宮整地層出土の「須恵器杯B」の編年も同様の論理的帰結を指し示していることは既に述べたとおりです。(つづく)

フォローする